第2364回例会/平成20年05月16日(金)

例会場:宮崎観光ホテル

出席状況(報告:金丸 憲史 委員)
 会 員 数:72名
 当日出席数:54名
 欠   席:18名
 出 席 率:75%
 前々回修正出席率
 4月25日 100%


□ゲ ス ト   :なし
□ビ ジ タ ー   :宮崎ロータリー 猪野眞稔様
           宮崎ロータリー 領家 勤様
□ロータリーソング :今月の歌「背くらべ」
□例会プログラム  :会員卓話


幹事報告(前畑 智之 幹事)
  皆様こんにちは。幹事報告を申し上げます。
 ■先ほど会長からご紹介がありましたように、地区からミャンマーサイクロン被害の支
  援及び中国四川省大地震災害の支援のお願いということで募金のお願いが来ておりま
  す。どうぞご協力よろしくお願いいたします。
 ■先週より拉致被害者救出の為の署名のお願いをしておりますが、すでにたくさんの署
  名をいただきましたが、今月いっぱいまでになるべく多くの方の署名をいただいて宮
  崎クラブにお届けしたいと思いますので、どうぞご協力よろしくお願い致します。
  それと拉致被害者支援のためのブルーリボンのバッジも今日から販売をしております。
  どうぞ多数のご協力をよろしくお願い致します。
 ■先週新入会員の3名ご案内申し上げました。無事に通過させていただきましたので、
  これから入会の手続きをさせていただきます。
  6月には入会を迎えたいと思いますので、よろしくお願いをいたします。
 ■ボックスに一枚の英語版のコピーを入れさせていただきました。田崎委員長からい
  ただいたものです。RI発行の雑誌で、田村ガバナーが投稿された文書が採用されまし
  て、2730地区のパネル移動展の記事でございます。
 ■ロータリー情報委員会の主催で6月10日に本年度入会の新入会員の研修会と歓迎
  会を予定しております。
  推薦者を含めまして関係者の方々には来週FAXでご案内を差し上げます。
 ■次週23日は理事会となっておりますのでよろしくお願い致します。


出席委員会(金丸憲史 委員)
 出席状況報告 上記の通り
 ■先ほど幹事からもありました、ブルーリボンのバッジを本日販売させていただきまし
  たが、今日用意した分はほとんど完売でございます。ご協力いただきましてありがと
  うございました。


親睦委員会(大江 幸政 委員)
 ハッピー・スマイル報告
 ■ハッピーボックスの紹介
  ★西岡昌志会員:5月1日の宮日新聞に商工中金が動産を担保として融資をするとい
   う記事が出ておりました。県内で第一号が西岡会員だそうです。ご本人にお聞きし
   たところ、商工ローンではないんだと強く強調されておりました。商工中金です。
   おめでとうございます。
  ★小池光一会員:宮崎銀行の新頭取にご就任されました。おめでとうございます。
   私も宮銀からは多額の借金をしていますので、この際ご「祝儀金利?」と言うこと
   で、少〜し、下げていただければありがたいなと思っております。
  ★吉田多穀会員:先月アラブ首長国連邦に旅行されまして、テロにも会わず、誘拐も
   されず無事帰国されたということで、おめでとうございます。


会長 挨拶(山口 賢一郎 会長)
 皆さんこんにちは。
 はじめに、ビジターのご紹介を申し上げます。
 宮崎ロータリークラブよりお越しいただきました、猪野眞稔様でいらっしゃいます。
 同じく宮崎ロータリークラブから、領家 勤様でございます。
 ようこそいらっしゃいました。ごゆっくりお過ごし下さい。
 □皆さん、嬉しいニュースでございます。
 小池光一会員が、宮崎銀行の次期代表取締役頭取に就任される人事案が正式に発表され
 ました。おめでとうございます!!
 記者会見で、「地域経済の活性化を目指して全力で取り組みたい」ということを抱負の
 一つとしておっしゃっていらっしゃいました。
 今朝のニュースでございますけれども、宮崎市の企業200社のアンケート結果により
 ますと、各企業とも仕入れの価格が上昇して売上が減少し、景気は一段と悪化している
 という回答があったそうでございまして、景気動向の判断指数は昨年より19.6ポイ
 ントも下がっておりまして、さらに6月末まで厳しい状況が続くということだそうでご
 ざいます。ご活躍をお祈り致します。
 □中国四川省では、12日に地下11q、幅40q、長さなんと300qという大変に
 大きな断層の地震が起きて、大変な災害が出ているようでございます。阪神淡路大震災
 の30倍のエネルギーといいますから、想像もつかない大きな力が働いたようです。中
 国政府は、死者が推計で5万人を超えるだろうと伝えたようでございますけれども、大
 変な事態になっているようです。日本の緊急援助隊が現地に向かったようでございます
 が、皆さんの活躍で1人でも多く、そして一刻も早く救助されるようにお祈りしたいと
 思います。
 また一方、ミャンマーではサイクロンによる被害が出ておりまして、ミャンマーの国営
 テレビによりますと直撃したサイクロンは、死者が4万3018人、行方不明者は2万
 7838人に達したと報じております。
 合わせますと7万人でございますが、国際赤十字社の報道によりますと、これは12万
 8千人と推計されているようでございます。これから雨季に向かいまして、一段と被害
 が拡大する恐れがあるようです。
 この2件に関しまして、地区から支援のお願いが来ております。後ほど幹事からボック
 スをお回しすると思いますが、どうぞよろしくお願い致します。私たちもまた、日頃の
 災害に対する備えを見直さなければならないと思います。
 □先ほど゛ちょっと元気のない季節の歌゛がありました。
 もう少し元気のいい歌だったような記憶があるんですけれども‥‥!? 
  5月といいますとあやめの季節でございまして、「いずれがあやめか杜若(かきつば
 た)」と言われるようにあやめや、かきつばたが咲き誇っております。似ているからこ
 ういう言い方をするんでしょうけれども、似ているということは違うということであり
 まして、土の乾いたところに生えているのがあやめ、私たちの言う菖蒲でございますね。
 かきつばたは水の中か水辺に咲いているということでございます。
  最近、前畑幹事が非常に痩せてまいりました。原因を尋ねましたら、私の方を見てス
 トレスです。と言うものですから、何だかあたかも私に原因があるような言い方ですが
 ‥‥?、聞いてみますと毎日1時間に及ぶウォーキングを続けていらっしゃるというこ
 とでございまして、それによって体が引き締まってきたと。
 と言いましてもこれが普通でございますけれども‥‥^о^
 私も、それを見習いまして、まだ3日ですが歩いてみました。公園通りを歩いてみまし
 たらたくさん歩いている方がいらっしゃいまして気持ちのいいものでございました。ジ
 ョギングをしている方が向こうから来られましたので、私は少し右端の方によけて歩き
 ながらすれ違うのを待っていたんですけれども、突然その方がテーブルの下にうずくま
 りまして、大丈夫かな、と思ってだんだん近づいて行ったら今度は急に立ち上がられて、
 また走り始められました。すれ違うときに良く見てみましたら、ビニールの袋を持って
 いらしてベンチのところに放り投げてあった弁当ガラとか紙くずとか、そういったもの
 を全部袋に入れて再びジョギングをされていた。私はそれにハッといたしまして、帰り
 道には何かゴミは落ちてないか注意して歩きタバコ吸い殻を拾いました。手に持って歩
 いていると何故かすれ違う人の視線を感じました。私はタバコを指に挟んで持っていま
 した。タバコを吸いながら歩いていると思われてしまったのでしょうか?、「似ている
 けど違うんだな」と思ったところでございました。
 今夜もまた歩きたいと思います。ありがとうございました。


会員卓話(塩月 光夫 会員)
 ■日本のガス
 わが国では、1713年に出版された「倭漢三才図絵」地誌や、1811年の「北越奇
 談」、1813年の「東遊記」に、越後七不思議の一つとして「陰火(熱を持たない火)」
 の記述があり、1836年出版の「北越雪譜」にも「越後の燃える風」として紹介され
 ている。当時700年以前は「風くそうず」と呼ばれていたとの事。ちなみに『日本書
 紀』天智天皇7年(668年)に「越(こし)の国、燃ゆる土(石炭)と燃ゆる水(石
 油)をたてまつる」とありますが、燃ゆる水(石油)を臭水油(くそうず)と呼んでい
 たことから「風くそうず」と呼んだのでしょうか。書物には「火井(かせい)」「風火」
 と書かれています。「くそうず」は、草水、草生水、臭生水と書かれていたようです。
 油は臭いがありますが、ガスが臭かったのかどうかわかりません。臭ければ、油性(石
 油系)の天然ガスだったのか。このようにガスは、古くから存在は知られていましたが、
 実用化されるのは、中国、バクーを除き、近代科学の勃興期を待つことになります。

 ■ヨーロッパのガス事始
 足早にヨーロッパ初期のガスの歴史についてお話します。1600年(慶長5年)ベル
 ギーのファン・ヘルモントが石炭乾留によるガスを発見。その後ヨーロッパでは、石炭、
 泥炭、木材などから可燃性ガスを得る実験が重ねられた。
 ドイツのベッケル、イギリスのボイル、クレイトンなどの名前が残っています。そして
 1792年(寛政4年)、イギリスのウイリアム・マードックがガスを自宅の部屋の灯
 火として使用。1792年マンチェスターの警察長官宅の戸外にガス灯を設置。179
 8年には商店の照明のための大きなレトルトを建設、またバンガル・ライトと名付けた
 大きな燭台を作り、1802年にはガスによるイルミネーションを見せた。1792年、
 フランスのフィリップ・ルボンが石炭ガス採取実験に成功、1799年(寛政11年)
 にはガス灯器を考案「テルモ・ランプ」と呼び、1801年(享保元年)冬、パリのホ
 テルでガス灯の公開を行いました。アメリカでは1806年にロードアイランド州のデ
 ビッド・メンビルがガス灯を開発しました。世の中にはやはり運の良い人と悪い人がい
 ます。マードックは蒸気機関車で有名なジェームス・ワット工場の技師であり、ワット
 の息子のグレゴリ・ワットが彼を支援。ついに彼はガス灯の研究を開花させ、今日「ガ
 ス灯の父」と呼ばれ「ガス工業の創始者」の栄誉を得、1808年には英国技術協会の
 金杯を与えられました。これにひきかえ、マードックと同じ年に石炭ガスの採取に成功
 したル・ボンは、1804年12月ナポレオン一世の戴冠式に技師として招かれた夜、
 パリの裏道で何者かに殺され生涯を閉じてしまいました。
 彼の救いは1801年ル・ボンのガス灯の素晴らしさに心を奪われたドイツ人F・A・
 ウィンザーが、やがてロンドンのポール・モール街の街路に32本のガス灯を建設しロ
 ンドン市民から「太陽も月も顔色なし」とたたえられたことでしょうか。時、1807
 年1月28日彼の死後3年目のことでした。しかしウインザーのガス事業は、マードッ
 クからの抗議や灯火業者からの激しい妨害にあい、彼は、一時失望のあまり自殺をはか
 ったとされています。しかし、ガス灯社会の流れは止められず、ウインザーは1812
 年(文化5年)に世界最初のガス会社ガスライト・アンド・コークス会社(別の文献で
 は、ロンドン・アンド・ウエストミンスター・ガスライト・アンドコークス会社)をロ
 ンドンに設立。1813年12月31日この日ウエストミンスター橋に取り付けられた
 ガス灯は、橋を煌々と照らし出した。しかしであります。このガス灯ロンドン子にとっ
 ては不気味なものとして写り、誰も橋を渡ろうとしなかったとのこと。ちなみに当時の
 ガス管は木管です。やがてガスは、1815年パリ、1816年アメリカのボルチモア、
 1817年アメリカのプロイデンス市郊外の紡績工場、1819年ベルギーのブリュセ
 ル、1822年ボストン、1823年ニューヨーク、1825年アメリカのブルックリ
 ン&ブリストル、1826年ドイツのベルリン、1835年ソ連のセント・ピータ−ス
 ブルグと、1850年頃までに照明用として欧米の主要国に普及していったのでありま
 す。話は1600年に戻ります。ファン・ヘルモントは、62ポンド(約28キログラ
 ム)の石炭を燃やしたところ1ポンド(453.6グラム)の灰しか残らないのを見て、
 燃えて飛び散った気体があることを発見したそうです。
 偉人は何でも疑問を持つことから発見につながるのでしょうか。この燃えて飛び散った
 気体、私たちは「音はすれども姿は見えず、ほんにあなたは○○のよーな」と言います。
 目に見えないものの正体は?。ヘルモントは、この気体を「ギースト」と名付けます。
 そうです。これはオランダ語で「幽霊」、ドイツ語では、「ガイスト」(霊とか精気を
 意味します)、ギリシャ語の「カオス(混沌)」を意味します。これが各国共通の「ガ
 ス」の語源と言われています。その他「燃える泉」「永遠の灯」とも呼ばれました。
 「ガス会社」は、「幽霊会社」と言う事になるのでしょうか。

 ■日本のガス事始
 話をわが国に戻します。日本人で最初にガス灯を見たのは誰か。定説では、播磨出身の
 貿易商濱田彦蔵(嘉永3年、1850年江戸に荷を運び、帰路難破して漂流、米船に救
 助され渡米。サンフランシスコで教育を受け帰化して、ジョセフ・ヒコと称す)との事。
 次に、安政7年(1860年)日米修好通商条約批准書交換使節として、咸臨丸船長と
 して渡米した勝海舟(『海軍歴史巻の八十一咸臨丸米渡航』の第六条瓦斯燈に「街市中、
 常夜の灯火に換ふるに瓦斯燈を用ふ。是は石炭を焼きて水素瓦斯を発せしむるものなり」
 と記す。
 次席全権村垣淡路守、随員仙台藩士玉虫左太夫、肥後藩士木村鉄太等であります。日本
 で製造されたガスによる燈が最初にともされたのは安政2年(1855年)であります。
 南部藩の医師島立甫が江戸亀井戸の自宅で照明用の明かりに使用し、時の老中阿部伊勢
 守、堀田備中守らにみせ、両者は島に金を与え事業を助けたとの事。この島立甫、日本
 人で初めて海草の中からヨードを発見し、わが国最初の写真および化学の発達に貢献し
 ました。しかし残念ながら、彼の事業は当時の時勢に合わず、わずか一両年で廃業しま
 した。
 ほぼ同時期に水戸藩那珂湊の反射炉構築の副産物のガスに点火されています。次に安政
 4年(1857年)薩摩藩島津斉彬候が、鹿児島の磯別邸の石燈篭にガスの燈を入れま
 した。彼は続いてオランダに本格的な機械を注文し、鹿児島城下一般にガス灯を建設す
 る計画でありましたが、翌安政5年7月に50歳で急死(毒殺?)。計画は日の目を見
 ませんでしたが、構想の大きさから、わが国のガス事業の最初の立案者として言われて
 いる。
 日本においてガス灯が本格的に点じられたのは明治4年(1871年)のこと。180
 7年のロンドンのポール・モール街の点灯から遅れること64年。明治2年(1869
 年)2月明治政府が貨幣鋳造のため大阪造幣局を新設。明治4年2月大阪府川崎村に開
 業。同年8月7日に、金銀溶解、貨幣鋳造用の余剰ガスを、構内の65基のガス燈およ
 び室内燈の照明用として用いました。しかしこれは、ガス事業を目指したものではでは
 なく、ガス事業そのものの誕生は明治5年(1872年)になります。

 ■日本のガス事業
 明治3年(1870年)8月ドイツ領事経営のシュルツ・ライス商会が、ついでイギリ
 ス人が横浜市にわが国はじめてのガス事業を計画、時の神奈川県令陸奥宗光に出願し、
 前者に免許が下りようとしていた。これを聞いて、外人によりガス事業が経営されるの
 は後に禍根を残すと考え、自ら8名の有志と日本社中(会社)を組んで10月競願した
 男がおりました。その名は、高島嘉右衛門。紆余曲折を経て12月7日、ガス燈建設の
 権利が彼に許可されました。彼は翌明治4年2月伊勢山下花咲町3丁目(後の町名で、
 当時は未開の地)に工場用地を取得。
 明治5年から製造設備の建設に着工。一日の製造能力2260立方メートルのガス発生
 炉、850立方メートルのホルダー1基、および付帯設備からなる工場でした。ガス管
 の大きさは、200o、長さは24kmでした。そして明治5年(1872年)9月(太
 陽暦で10月31日)横浜の町にガス燈が点火されました。わが国のガス事業にとって
 歴史的なこの日、大江橋から馬車道本町通にかけて街灯10数基が点灯されました。今
 年で日本のガス事業は134歳と言うことになります。
 この日を記念し日本ガス協会では昭和47年(1972年)に10月31日を「ガスの
 記念日」と制定しました。
 ただ、ごたぶんにもれず、ガス燈は、キリシタンの魔法であるとの流言が飛び、恐怖心
 をいだく者もあり、高島が外人と結託して横浜を爆発させる準備であるとの憶測で、壮
 士が高島邸にしのびこむ事件も起こりました。明治7年(1874年)には横浜瓦斯に
 天皇・皇后両陛下の御臨幸されています。
 公用のガス灯料金1000立方フィート(28・3立方メートル)につき3円75銭、
 一般使用の屋内灯も28.3立方メートルにつき3円75銭。当時の入浴料1銭5厘の
 400倍。お米1升(1・5kg)7銭の50倍と比較するといかに高いものであったか
 がわかります。ここで、どうしても高島嘉右衛門について話さなければなりません。彼
 は天保3年(1832年)生まれの江戸っ子。後に皆さんが今日もすがって?おられる
 「高島易断」の創始者その人です。彼は安政2年(1855年)の大地震を予見して巨
 利を得ますが、買い受けた南部藩の材木の流出により巨額の負債を抱え、幕府の金輸出
 禁制を犯して、投獄されるなど大きな浮沈を繰り返します。その後旅館業を営み、英国
 公使館、横浜灯台の建設を請け負って外人に大きな信用を得、伊藤博文、大隈重信等と
 親交を結び、新橋、横浜間の鉄道建設を建言し、その建設工事を一任され工事を完成さ
 せました。明治5年(1872年)9月12日(太陽暦10月14日;1922年に
 「鉄道記念日」として制定。1994年「鉄道の日」と改称。)横浜まで明治天皇の行
 幸を仰ぎ鉄道の開通式が挙行され、ついで29日(同10月31日)ガス燈点火となる
 わけです。
 彼は明治9年、私財を処分して引退、その後「呑象」と号して「高島易断」の創始と弘
 布に努めましたが、25年、財界に復帰し要職につきました。明治45年(1912年)
 5月帝国瓦斯協会が創設され、協会は彼を名誉会員として処遇。大正3年(1914年)
 10月16日83歳の高齢(今では若い方か)で没した。ともあれ、横浜のガス点灯は
 大きな評判を呼んだ。やがて明治7年(1874年)11月神戸において外人居留地区
 に外人資本でガス燈専用施設が建設され、兵庫ガス商会によってガス燈が点灯された。
 東京においては、東京会議所によってガス燈建設が計画され、同明治7年、横浜ガスの
 建設技師プレグランの手で工事が進められ12月18日、金杉橋から京橋までガス燈
 85基が点灯された。このガス燈事業が払い下げられて、明治18年(1885年)東
 京ガス株式会社となります。
 この時の需要家数は343戸、社員は61名でした。ところが、文明開化の先駆者とな
 ったガス事業ではあったものの、以後明治32年(1899年)神戸ガスが開業する迄
 約30年近く眠れるごとき停滞をみせるのであります。
 なぜか?。その理由の第一は、簡便で安価な石油ランプの急速な普及、第二は電燈の出
 現です。
 明治20年(1887年)11月、東京電燈株式会社が一般供給を開始、続いて名古屋
 ・京都・大阪など9都市にそれぞれ電燈会社が開業され、九州でも明治24年熊本、
 26年長崎、30年博多と、ガス会社に先行して開業。町々に茄子型の炭素線電球の
 赤い燈をともしました。このためガス事業は大きな脅威を受け、新しくガス会社を創
 業するどころではなかったのであります。

 他に、■ガス事業の夜明け■昭和初期のガス事業■宮崎ガスの歴史のお話を頂きました
 が誌面の都合上割愛させていただきます。


会報委員会:黒木 育子
編集・構成:上園 哲朗