第2253回例会/平成18年01月13日(金)
会長挨拶(林 務会長)
我が西クラブ第23代会長の鈴木敏道さんがご逝去されました。ご立派な体格であられましたから訃報に接しました時は信じられない気持ちでございました。ゴルフはシングルの腕前で、特にパッティングは神業的だったのを覚えております。ご冥福をお祈り申し上げます。
さて本日、5名のお客様をお迎えしております。本来ですとご挨拶を戴くところでございますが、ご連絡戴いた時には既に本日はゲスト卓話となっておりましたので、誠に申し訳ございませんが、時間の関係で、私からのご紹介にとどめさせていただきます。
PEACE, HEALTH & HUMAN DEVELOPMENT
財団法人PHD協会の研修生3名、ミャンマーからのタゥンティンテーさん。フィリピンからのロナルド・ザモラ・モラレスさん。インドネシアからのマスラル・アリゾンさんです。次に職員の高垣隆博さんと佐藤栄利子さんの5名でございます。
このPHD協会というのは、長らくネパールで医療活動にあたられた元神戸大学医学部教授の故岩村昇博士の提唱で、1981年に神戸に設立された民間の国際協力団体でありまして、アジア太平洋の国や地域から研修生を招き、農業や畜産、保健衛生等の分野で研修を受けさせ、帰国後、新しい農業や村づくりに役立ててもらおうという運動を展開されておられます。会の運営費の多くは寄付に頼っておられるのが現状で、本日も研修生による手工芸品をお持ち戴いております。お帰りの際、是非お買い求め頂きますようお願い申し上げます。
尚、最後になりましたが岩村博士は1981年、国際ロータリーの「国際理解賞」を受賞されておられます。
幹事報告(日高 久夫幹事)
1.後で、お回しますけど、財団の募金の件、宜しくお願いいたします。
2.インターシティ・ミーティング(I・M)は前回の例会の時にボックスに入れておきましたが、再度参加のご案内を致します。日時は2月19日に9時から12時半まで、場所はコンベンション・サミットホールで行われます。締め切りが20日までですので、宜しくお願いいたします。
3.もう一点は、本日のボックスの中に入れておきましたが、「不正薬物禁止シンボルマーク(バナー)デザイン募集」の件です。「Stop
The Drug」とか、「一回でもダメ」というような形で、本年度は宮崎RCが行います。本年度はホームページを作成しまして、そのホームページにリンクするバナーを募集しております。2月一杯が募集期間です。誰でもクリックするような魅力的なバナーを是非、宜しくお願いいたします。
出席委員会(阿部 倫也委員)
本日の出席状況(前記の通り)
親睦委員会(金丸 宣裕委員)
ハッピーボックスの紹介
・阿部 倫也会員 今年第一号、阿部 倫也会員をご紹介いたします。新年早々、テレビCMで大活躍
・ シニアゴルフを応援する日興コーディアル證券。皆様の益々のご発展とスコアアップを祈念して、今年第一号のハッピーを頂きました。
ポール・ハリス・フェローの認証式(金丸 宣裕会員)
(林会長)ポール・ハリス・フェローの認証状が来ておりますのでお渡しいたします。
本日のゲスト紹介(藤本 廣年会員)
皆さん、こんにちは。と言いますか、明けましておめでとうございます。プログラム委員会の藤本でございます。本日は、今年初めてのゲスト卓話ということで坂元 耕三様をご紹介致します。先ほど、ご紹介を会長の方から頂きましたが、坂元さんは宮崎市内でヤマトボーデンという消防施設及び電気工事の会社を経営されております。そのかたわら、財団法人モロラジー研究所という所で主に「道徳」と言うことについて講演活動をされております。昨今、変な事件が沢山ございますが、日本の、日本人の道徳が壊れてきている証拠ではないかな、という風に思っております。本日は「原点に帰る。」と言うことでお話を頂きたいと思いますので、どうぞ宜しくお願い致します。
ゲスト卓話(坂元 耕三氏)
それではあらためまして、皆様、新年明けましておめでとうございます。
日頃から宮崎のロータリークラブの皆様方のご活躍は、大変遠くからではありますけれども、拝見させて頂いており、また敬服しております一人でございます。本当に皆様方の活動は公私に渡りまして、献身的に地域活性化、あるいは意識向上のために努力をなさって居られる、そのご姿勢たるや世界の津津浦浦まで届いているという風にお伺いいたしております。このような席に藤本ご先輩の方からご紹介頂きまして、話の場を与えていただきましたことを心から御礼申し上げる次第でございます。
さて、今日は私は日頃から国内各地を、今の日本の教育の現状は非常に惨憺たる現状にあるということで日本人として、ちょっとしゃんとした生き方はできないのだろうかと、色々と話をさせていただき共々に研修活動をさせてもらっている一人であります。今日はそのような立場から私が学びましたこと、或いはまた、聞き及びましたことを交えながら、皆様方に30分間お時間を頂きましたのでお話をお伝えさせていただきたいと思います。どうぞ、宜しくお願いいたします。
まず、皆様方は、新年を、それぞれ期待を一杯胸に膨らませて新しい年をお迎えになったのではないでしょうか。幸いに致しまして、我が宮崎は雪も降らずに非常にお天気が良いお正月だったのではないかと思いますが、片一方では豪雪で大変苦しんでおられるご家庭も日本国内では数多くあるわけであります。そういうのを鑑みまして、日本は世界で経済的に第二位の経済発展を遂げた素晴らしい国である、ということを自負すると同時に反面、陰の部分はまだまだ結構あると言うことを考えますと安閑としていられないと言う気持ちで私は正月を迎えさせていただいた次第でございます。昨年も、ニュースをひもといてみますと本当にいいニュースというのは感じられませんでしたね。ただ、救いだったのはご皇室の紀の宮様のご成婚が、唯一の年末の救いだったかなと、斯様に思うわけであります。
今日は現状の日本の経済発展の裏にはいったい何があるのだろうかと言うことを皆様方にすこしお話を、させていただきたいと思います。
まず、良く社会的に言われますことは日本は経済大国になったと、アメリカに次いで世界経済第二番目になったと、言われて久しいわけでありますけれども、果たしてそうなんでしょうか。経済では大きく成長したけれども反面、心の豊かさというのは多いに無くしているのではないか、斯様に言われる部分が最近あちこちで聞かれるようになっております。特に家庭は崩壊、そして子供達は親を逆に怪我させたり、傷つけたり、殺したりというような時代にまで我が国は落ちてしまった。非常に嘆かわしい実態が起きているわけでありますけれど、企業におきましては、どうかと。バブル崩壊後の我が国の現状はいかがでございましたでしょうか。小泉政権に入りまして我が国は公的支援を受けました銀行団が次々と返済を完済致しましてですね、銀行経済復活論を盛んに政府は述べております。経済は良くなったといわれますけれども、この宮崎でも本当に経済は良くなったなと感じられる企業は数少ないのではないかと。小企業や零細企業に至りましてはまだまだ苦しんで居られる企業がたくさんあると。斯様に思うわけであります。ところが、企業者や経営者の資質が因みに今、低下していると言うのが現実でございましょう。一つに昨年の暮れから盛んにニュースでメディアを賑わしておりますところの姉歯事件、いかがでございましょうか。自分さえ良ければ良い、自分の企業さえ生き残れば良いというような本当に了見の狭いと言いますか、視野の狭いと申しますか、その企業姿勢があのようなことになっていってしまったと。安く受注をして、そしてお客様にひとつでも多くの実績を上げて自分の会社が儲かればよいと。果たしてそれで宜しいのでしょうか、と言うことを問いかけているわけでございます。つまり、私が申し上げたいのは今の日本人として結果的に打算でしか物事を見ることができない数多くの人材が増えてしまったと。非常に之は反省すべき事ではないかと感じておるところでございます。そこでですね、このような計算高い経営者、あるいは家庭、教育の中で、子供はいい学校へ出していい教育を受けさせて、そして良い所へ就職させていけば、それで安心だと言うような、どうも歯車が一つ間違ったような生き方をしているような、本来の日本人としてのプライドと言いますか、その尊厳性が非常に失われてしまっているような現状で果たして、これから回復できるのであろうかと言うことを考えてみますと、これはなかなか時間がかかるものではないかという風に感じておるところであります。@LF そこで、実は今日は皆様方にご提案をさせていただきたいのはですね、徳川幕府が三百年で、永年継続をできた企業だと例えれば、三百年の長きに渡って経営を継続してきたその秘訣はいったい何だったろうかと。色々ございます。
しかし、私はもっとすごいところがありますよと、皆様方にご紹介したいわけでございます。それは島津軍団であります。室町時代に発祥致しまして、三百年どころか、七百年以上の歴史をもって、未だに薩摩の国、鹿児島に営々としてその軍団を維持し、経営を継続しているいうことでございます。実は、その島津の軍団を作り得ましたのは、中興の祖といわれるのが関ヶ原の戦いで大戦果を上げましたところの島津義弘であります。@LF 実はこの人物につきまして、少し皆様方にお話をさせていただこうと思うのですが、実は一千六百年、関ヶ原の合戦の時に東軍、徳川方、その総勢七万、そして西軍石田光成方、総勢八万という十五万の大軍がシーンと静けさ深まった朝靄の中にたった一発の種子島の「バーン」という銃声の音で関ヶ原の大合戦が始まったわけでございます。毛利元就をはじめ全国列強の諸大名は、ほとんどの観測と致しましては二年、三年と続くであろうと云われているこの戦いでありましたが、ものの二時間半、朝靄の中に一発の銃声で始まったその関ヶ原の合戦があっという間に終わってしまう。ふと我に返って、気がついた時には石田方の軍勢は、旧豊臣派でありますが、この軍勢はほとんど壊滅し石田三成にしても、姿をくらまして逃亡してしまった。後はシーンとした、馬のいななきが「ヒヒーン」と聞こえるような静けさの中に、一つの軍団だけが山の中腹に一千八百余騎の軍団を従えまして生き残っている。それが実は「丸に十の字」の旗印の島津の軍団だったわけでございます。ところが、その一千八百余騎の島津の軍団に対しまして、時の徳川の七万余騎は誰一人として、弓一本、槍一本刺そうとする軍団や兵隊はなかったわけでございます。
何故なんだろうと、実はここに大きな疑問が出てまいりまして、鹿児島に「黎明館」という資料館がございます。ここの、史料を色々と見せていただきながら、又お隣のすぐ近くに「南州神社」と云うのがございます。そちらの史料館の裏に、書籍や蔵書を収納いたしました史料館がございますが、こちらの吉田館長さんにもお願い致しまして色々と史料を見せていただきました。そうしましたら、色々なデータが出て参ったのですが、その島津の軍団に対しまして何故射かける事が出来なかったかということではっきりしたのは、何と豊臣秀吉公の朝鮮出兵から始まるのです。その朝鮮出兵の時に島津の軍団は勿論でありますが、時の大腹心でありました福島政則とか、あるいは大友相隣とか、日本の剛勇たる名将が朝鮮へ出兵を致しております。熊本の加藤清正もそうでございます。実はその朝鮮に出兵致しました時に、当初は良かったのです。ところが、年が経つうちに段々と朝鮮の軍団も力を増してきまして、何としてでもこの日本軍団、和軍を徹底してやっつけなければならないという、国家意識に目覚めまして日本を攻め立てたのですね。さあ、出兵致しております豊臣軍は大変苦戦を強いられます。糧食、或いは弾薬が尽きまして、どんどん追いつめられていくわけであります。そこで、終いには悲報が本部から朝鮮まで届くわけであります。「豊臣秀吉、死す」、と云うこと。これは秘密の連絡でありました。それを島津の義弘が受けるわけでございます。さあー、大変であります。そこで、もう豊臣秀吉が居ないのだから、みんな引き上げようやと、総大将が集まりまして、軍議をやりました結果、引き上げようと。ところが、誰がどういう形で、引き上げるかということになったのですね。そこで案じましたのが、一番しんがりを務める者が当時の戦では、大変な役目を担うわけでございます。特にその最後のしんがりは総攻撃を受けますので、逃げも隠れも出来ない。ほとんど全滅、壊滅させられる状況にあるわけです。命を捨てて、誰がそのしんがりを務めるかと云うことになりました時に、初めてその豊臣方の一番の温厚を受けていたという加藤清正か、あるいは福島政則か、と私は思ったのですが、あにはからんや鹿児島の薩摩の島津義弘がこれを引き受けるわけでございます。わかったと、その薩摩の軍団はたった八千余騎だと云われております。それで、そのしんがりを引き受けるわけですが、時も時、朝鮮民兵軍が二万六千、当時の日本出兵軍団が三万六千、約一万の差があるのですね。それで朝鮮はたまりかねまして、中国の明に救援を頼むのです。その救援を頼みました軍団が、総じて二十万、一挙に、秀吉の死を境に致しまして、その日本出兵軍団の壊滅に進軍を開始するわけです。さあ、大変でございます。そこで島津義弘は一計を案じるわけですが、自分がしんがりを務める、その代わりに小舟という小舟を近郊の漁村から全部集めてくれということで、ダーッと日本海側の港に小舟をずっと集めまして日本軍のそれまでの加藤軍、福島政則軍、大友軍をどんどん引き上げさせるわけでございます。残されました八千余騎の薩摩軍団、島津義弘はどうしたかと云いますと、彼には彼の作戦がありましたそうでありますが、当時持って行っていた鉄砲が有ったわけですね。これが三千六百挺だといいます。この大明軍団二十万に対してまして、攻め入ってくるその陸路を、一番狭い狭隘の地域に導くわけであります。そしてその導いた時にですね、これは織田信長が使った戦法なんでありますけれど、三段連射戦法といって、両サイドの山の小高いところからですね、三段に両サイドから三千六百挺、一千八百挺づつ分けたのでしょうね。そして三段構えで射かけたわけであります。さすがの二十万の大軍の大明軍団も、その薩摩の捨て身の、種子島銃か何かは分かりませんけれども、射かけられたその勢いに、あっという間に二時間でこれも二万三千余の兵卒が亡くなりまして、八万余騎が雲散霧消、支離滅裂になりまして何処へ逃げたか分からなくなり、二十万の軍隊が壊滅したというんですよ。そしてその時にですね、ここに島津あり!ということで、幟の真っ白い旗に「丸に十の字」の我ここにありと、初めてそこで島津の「丸に十の字」の旗が出来上がったと云う風に書かれておりました。ああ、そう言うことだったんだと。
実はその時に「貸し」をしたんですね、福島候、加藤候、大友候、そういった武将達に、実は関ヶ原で敵対いたしましたけれども、その時に「貸し」を作っておりますから、実は島津軍団が一つだけ生き残ったわけでありますけれど、誰も攻めることはできなかったというのは、そこにあるわけであります。非常に深いわけがあったんですね。しかし敵軍のまっただ中、千八百余騎は、関ヶ原の戦場でありますから、さあどうやって帰るか。良くテレビや映画などで放映されますけれども、「島津軍団走る」と云うことでですね、敵中突破、そして鹿児島へ。という話が良くありますけれども、実際はそうじゃないんですね。一千八百余騎の、その軍団はですね、三角形の軍団に組まれましてこの隘路からですね、その脇からダーと槍ぶすまを作るのです。そして全体がザッ、ザッ、ザッ、ザッと進んでいくんですね。そして横からボンボンやられましても、この三角形の体型は崩していかない。小さくはなるけれども、そのまま進軍して行くんです。そして、徳川家康の真ん前まで攻めて行くんですが、あと二丁という所でピタッと止まるのです。顔が見える距離であったそうであります。後にも先にも、徳川家康の手記に、このように書いてございます。「自分の一生の中でこれほど肝を冷やした,命の縮まった思いをしたのはない。この時が生まれて初めての私の恐怖心をあおった最大のものである。」という風に残しておりますが、まさにその通りだったと思うのです。何となれば、その時残った島津の軍隊は一千二百余騎であります、あと二丁という所でね。そして、その徳川家康の旗本部隊は三百しか居なかった。だから、ダーッと攻め込まれたら徳川家康はあのとき討ち取られていたんですね。だけど、そこでハッタと睨んでですね、「儂はここから貴方を討たないで郷里へ帰る、今後一切手出しは、あいならん。」と目配せしたとかどうとかの、いろいろの話はありますけれども、まぁそれはほっといておきまして、そのまま堺の港へ走っていくわけであります。ところが、やっぱり一旦負けた方の軍隊でございます。あらゆる所から攻められるわけでございますが、堺の自分の隠し宿にたどり着いたときには三十六名しか生き残っていなかったと云われております。そしてその三十六名を連れまして、船で鹿児島まで帰るわけでありますけれども、何故その時に関ヶ原の合戦のその一千八百という兵隊が、関ヶ原に馳せ参じたかと云うことであります。
これには色々話がございますのですが、現実には非常にその仁徳のある、人間味のある教育体系を島津義弘は作っておるのですね。私はびっくり致しました。
実は薩摩の国というのは大変貧乏な国でありましてね、当時は。それから後、沖縄を徳川家康から拝領致しましてですね、薩摩の所領になったのですけれども、沖縄を手にするまでは非常に貧乏藩であったと。それでお侍といえども半農半武で百姓をやりながら生計をたてていた武士だったんです。ところが島津義弘は、先ほど申し上げましたように、仁徳のある方でございましたのでね、奥様が各家庭を訪問されて、一軒一軒回って居るのです。そして本人も国へ帰るたびにお土産を持っていったり、困ったことはないかと世話をやいております。私たち企業人、現代の社長と致しましてですね、今の自分の社員の家庭をずっと見て回ることができているか。これはなかなか出来ておりません。本当に子供が産まれたら産着を持っていってやり、あるいは畑に植える種がないといったら、種を持っていってやり、恐らくいろんなことをしたというふうに述べてございます。 あーやっぱり、近代的経営をする中にも、人としての生き様の中で、本当にそういうお世話が、心ある生き方がちゃんと行き届いているのかなというのを考えましたときに、今の我が国の経営者の中には自分の給与さえしっかり取って部下の社員のことはどうでも良い、そんなことはいいませんけれども、給料をちゃんと渡しておけばそれで良いではないかというような経営者が非常に増えてしまっておるのではないかと。斯様に思うところがあるわけでございます。その辺の所を考えますと、当時の厳しい生き方の中で、私は、まだまだ考えさせられる点は多々あるのではないか。今の現代社会の中でただでさえ社員とリーダーとのベクトルをきちっと合わせていることができているかどうか、これ一つ考えてみてもリーダーとしての社長の資質に本当に惚れ込んで我が身を挺してまでも社長を守ろうという兵隊さんが我が社に果たして居るだろうかと云うことを考えてみましたら、本当に、居ないとは云いませんが、少ないんではないかと思うんです。実はそのような世話をきちっと行き届いてやったが故に、その薩摩の一兵卒達は島津のお殿様が薩摩の国で関ヶ原の戦いには行ってはならん、あの戦いに薩摩藩としては手を出してはならんと、おふれを出したのです。にも関わらず、江戸、京都に居りました在郷の三百名の武士は別に致しまして、一千五百の兵卒が着の身着のままで家に駆け込んでお殿様が危ないぞ、それ今だ、行けということで槍を取って刀を取って鹿児島から東海道をずっと関ヶ原まで走っていったんだそうです。ところが、山口を過ぎまして、広島、岡山と、そして大阪まで入るまでの間に、通りの人たちはあまりにも薩摩の兵隊さん達が走ってくる姿に哀れを感じまして、食事を与えたり、あるいはこれを持って行きなさいよと水を与えたりして、薩摩の兵隊達を励ました、という実話が残っているわけでございます。実はその姿をもって、「島津、走る」と云われる所以がそこにあるわけでございまして、本当に私たちが企業経営を成していく上で、真に自社の繁栄は当然でありますけれども自社の社員の繁栄、家族の繁栄、それが地域社会の繁栄に繋がっていく根元を培っていくところに大きな課題が私たちには課せられているのではないかと、斯様に思うところでございます。まさに大変厳しい経済状況の中ではありますけれども、本当に企業の経営を成す上で、まずもってその企業のオーナーのご夫婦の姿勢が問われると、いうことでございます。自分の会社が倒産をするという前夜に奥さんはまだ自分の会社の企業内容をご存じなかったという会社も結構あると、いう風に聞いておるわけでありますけれども、やはり夫婦の心が合う、そして社員との心が一つになる、「衆心合せざれば、形を造らず」という言葉もございますけれども、そのようなことが大切ではなかろうかなと、思うところでございます。現実として、良いことが良いと思えるようになりましたらその人の運命が良くなり始めたんだそうであります。ところが悪いことが良いと思えるようになった時はその人の運命が悪くなり始めた時だそうであります。お互い、これから自分たちの経営姿勢を本当に心に良く問いながら、社会の倫理観の欠如した経営者の一端にならないように、まぁ勿論、皆様方にはそのような方は一人もいらっしゃらないわけでございますが、社会に貢献するという立場からでしたら是非ともそのような原点に帰っていただきまして、その人の道、生き方たるや、どういうものであろうかということをお考えになって、これから一年を頑張っていただければ、大変私も有り難いと、感じるところであります。
以上、私、原点に立ち返るということで今日はお話をさせていただいたわけでございますけれども、実社会のひずみは自分自身の奢りと高ぶり、それに傲慢さから出てくると、斯様に言われます。どうぞ謙虚なご姿勢になっていただき、お互いこれから社員さんと一緒になっていただきましてご活躍されんことを心からお祈りを申し上げまして、要を得ませんけれども、私の本日のお話に代えさせていただきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。感謝いたします。
協会について(高垣 隆博 PHD協会職員)
みなさん、こんにちは。先ほどPHD協会の活動内容に関しましては会長の方よりご紹介頂きましたとおりでございます。詳しい活動に関しては資料をご覧頂ければと思うのですが、少し付け加えておきますと、PHD協会は物や金による援助ではなく、現地の人たちが自分たちの力で持続的に生活改善に取り組めるよう、人作りによる援助を行っております。研修生達は日頃、兵庫県内で米山奨学生としてRCでお世話になっておりますが、研修も、主に兵庫県内で行っております。ただ、三月に帰国を控えたこの時期に日本のことをもう少し知って貰おうということで、ここ宮崎県をはじめに水俣では水俣病の事を勉強したり、また広島では平和学習を行ったりして社会学習を行う機会を設けております。三月にはフィリピの研修生の出身地である村を訪れまして比較研修旅行というのも計画しております。私たちは帰国した研修生に対しても現地をほぼ毎年訪れて、フォローアップなども行っております。過去のタイからの研修生が作りました草木染めの布なども表に並べておりますので、またご覧頂ければと思います。今日は、この機会を与えていただきありがとうございます。ありがとうございました。
本日の閉会の挨拶(林 務会長)
今日は坂元さんには大変素晴らしいお話を頂きまして、ありがとうございました。目指すところはRCの職業種と全く一緒だなと感じました。是非、藤本会員には坂元さんを我が西クラブに入会をお勧めいただきますようにお願いを申し上げます。
おひとり、ご紹介を忘れておりました。ニューフレンドの塩月光夫さん(宮崎ガス株式会社、常務取締役)、最後になりましたけれども、ご紹介しておきます。では本日はこれにて閉会致します。
(担当:金丸禮三)(写真撮影:渡辺久之)