第2221回例会/平成17年4月22日(金)
会長挨拶(小田原 義征会長)
4月20日高見忠典会員の告別式には、多くの皆様のご会葬いただきましてありがとうございました。
4月2、3、4日、富山に行き(株)インテック代表取締役会長、富山経済同友会代表幹事 中尾哲雄氏の講演を聞く機会がありました。
演題は「地域開発」です。インテック社5,000人の社員の内、東京に2,500人、全国17ヶ所危機管理の為全て自社ビルです。
いま、4月29日祭日は緑の日です。昭和天皇の誕生日「昭和の日」にする会長をしている。又、11月3日文化の日ですが、明治天皇の誕生日です。昭和の時代は我国最大の激動、復興した時代を日本人としては忘れるべきでない。森首相のとき神の国発言で見送られ3回目で4月1日衆議院で可決、参議院へ。
今年から富山でこんぶ祭を開催する。北海道からコンブを北前船で沖縄まで運んでいた。北海道の知事+沖縄はコンブ料理が異なるので沖縄からも多く参加願う。
地域開発は、スピリットであり、地域経営である。その為には、業祭、地域と地域が交流をすることと話しされました。
富山の人々が中国の大連で多くビジネスをしている。昔の富山の薬売りに通じるものがある。人口28万の市に国際便としてソウル週4便、大連週2便、ウラジオストック週2便、新幹線平成25年完成予定。平成17年4月1日、1市4町2村合併して42万になった。同時に首長、議員定数126名→市議46名、4月24日合併投票日であります。
観光についても3,000m越える連峰
・チューリップ100万本のフェアー
・世界遺産の五箇山合掌造り集落
・黒部ダム
・立山黒部アルペンルート
企業としてYKK、北陸電力、インテック等々多くあるのに、景気が悪いと、なんとかせねばと頑張っておられます。
以前、赤坂のサントリー美術館で川端康成展が開催されておりました。ノーベル文学賞1968年(昭和43年)受賞されてます。ノーベル賞の金メダル、裏表見ました。自画像・絵・書が上手であります。そして美術品の収集家でもありました。聖徳太子立像、一番気に入っていたのがロダン作女の手です。日本画、尾形光琳、東山魁夷等々、焼物など多くの作品のコレクターです。
雪・月・花に象徴される美しい日本をこよなく愛された日本人、ノーベル賞受賞記念講演の「美しい日本の私」序文に 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて冷しかりけり 道元 とあります。
本日のゲスト卓話は大地に絵を書く岩切イズム、そしてたまゆらの「川端康成と宮崎」の渡辺網纜先生です。楽しみでございます。
幹事報告(森重 勝雄幹事)
ヨ例会変更(裏表紙に記載のとおり)
出席委員会(岡崎 優委員長)
ヨ本日の出席状況(前記のとおり)
吉田 多穀会員より、葬列のお礼として多額のご寄付を頂いております。
吉田 多穀会員
「先日の私の母の逝去にあたりまして、年度変わりの月末で大変お忙しい中、会員の皆様方の多数のご列席を頂きまして、心よりお礼を申し上げます。
次年度幹事委員会(日高 久夫会員)
ヨ本日6時より、次年度の理事会を開催いたします。場所はJALシティ2階会議室です。
ヨ2005・2006年度の地区協議会の開催をボックスの方に入れておきました。よろしくお願いいたします。
親睦委員会(金丸 宜裕会員)
平成17年5月27日金曜日、インフォーマル・ミ−ティングを17時・例会を18時から、新会員歓迎会を18時15分から開催いたします。場所は檍小学校近くのクチナ・トリーバでございます。多数のご参加をお願いいたします。我々新入会員も一日も早く諸先輩方に追いつくようがんばりたいと思っております。よろしくお願いいたします。
SAA(マイケル・インディゴ副SAA)
ヨ神崎会員 私の娘は大学英文科4年、その後親戚の吉村薬品に2年勤め、そして何を考えたのか、大学獣医学科に入学して6年、計10年の大学生活から、この4月より獣医師として県畜産保健所にめでたく奉職する事となりました。私としては肩の荷をおろした気持ちですので、ハッピーを出させて頂きます。親の私が伝えるのも気が引けますがこの娘は少し年をとっていますが、気立てが良くて美型であります。皆様に良きムコさんを御紹介いただきます様、お願い申し上げる次第であります。
ヨ森重幹事 2番目の娘は薬剤師の国家試験を合格したとのことです。
ヨマイケル会員 妻の実家、正春酒造が製造する「逢初」が熊本国税局の審査により本格焼酎部門で入賞されたと発表がありました。
ヨ小林会員、古賀会員、中山会員、菊地平会員、菊地信会員 今日はアースデーです。少し意味が違うかもしれませんが、アースに関係した皆様でございます。これからもアースを大事にして頂くという意味で、ハッピーを頂戴したいと思います。
プログラム委員会(植松 孝一会員)
本日は渡辺綱纜先生に卓話をお願いいたします。幅広くご活躍されておりますが、個人的には大宮高校のPTA会長のすごく怖い先輩というイメージなものですから、紹介する口が震えます。今日は「ロータリーと私、52年前の思い出」と題しまして、卓話をお願いいたします。
ゲスト卓話(渡辺 綱纜)
なかなかユーモアのある例会で、感心いたしておりました。ご紹介いただきました渡辺でございます。今日はお招きいただきまして、大変嬉しく思っております。と申しますのも、只今ご紹介いただきましたが、今日は「ロータリーと私」と題してお話させていただきます。私はロータリーの会員ではございませんが、52年前の思い出ということで、楽しく聞いていただければと思っております。今もなお、ロータリーにつきましては、鮮烈な印象・鮮明で昨日の事のようにお話できる思い出がございます。私は昭和28年、今から52年前に大学を卒業しましてすぐに帰ってまいりまして、宮崎交通に入社いたしました。ちょうどその年に、ロータリークラブが産声を上げました。宮崎県の第一号、宮崎ロータリークラブです。ロータリークラブは誕生いたしますと必ず、チャーターナイトというのがございまして、全国に案内状を出すわけですが、52年前ですからもちろん飛行機はありません。カーフェリーもありません。日豊本線が宮崎・東京間にあるだけですから、全国から宮崎のような所にロータリアンが集まるということは、想像ができなかったのです。しかし、非常に反響が大きく100人近くが「ぜひ参加したい」と、申し込んで来ました。名簿を見ますと、本当に全国の名だたる方々、一流会社の社長さんや財界人がいらっしゃいました。初代の会長は宮崎交通の創立者であります岩切章太郎さんですが、本人が大変びっくりしまして、こんな方々が集まるのなら、それだけの事をしなくてはいけないと思われたわけです。北は北海道、南は沖縄がまだ復帰しておりませんでしたので、鹿児島が一番南でしたが、100人の方が来られるのですから、その頃ちょうど宮崎は、観光を目指そうというスタートラインでしたので、「これを起爆剤にしよう。いい印象をもって帰ってもらおう。」と、そのチャーターナイトは県政財界を揚げてといってもいいくらい力を入れたものだったわけです。まだ、戦災の跡が生々しい時代でしたから、その会場にするめぼしい建物がありません。公会堂が県下で一番大きい建物だったわけです。会場はそこでいいのですが、問題は宴会です。全国から集まる方、地元の方、400人近くが一堂に集まって、パーティをする場所がなかったのです。このホテル(当時の宮崎ホテル)はできておりましたが、一番大きな広間が60人しか入らなかったのです。野外でするといっても当時はそんなに大きなテントもないし、雨が降るとできません。分散すると盛り上がらない。本当に困ったわけです。ところが、岩切章太郎さんという人は、決してあきらめない人だったのです。ないものはないといってもあきらめない。寝ても覚めても考えろというわけです。本人も一生懸命考えました。そして、「公会堂を使えばいいじゃないか。」と言うのです。岩切さんにしか思いつかないことです。みんなは公会堂というのは、宴会には使えない、公演などにしか使えないと思い込んでいたのです。彼が考えたのは、午前中にチャーターナイトを終えて、お客さんを10台くらい用意した観光バスに乗せまして、日南海岸へ向かわせる。そして、留守になった間に公会堂の椅子を全部外へ出し、そこへ新しくテーブルを50卓入れる。観葉植物はバナナを使いました。テーブル50卓など集まらないと言うと、「製材所に行って間伐材を集めてこい。」簡単な土台を作って、ベニヤ板を釘で簡単につけて、トラックで当日運び込みます。とても見られたものではないけれども、テーブルクロス掛ければ中はわからない訳ですから、立派なものです。終われば壊して当時は燃料になるのです。テーブルクロスも当時は白というのが常識だったのですが、「白ではいけない、きれい過ぎる。」と言うのです。公会堂というのは壁も天井も床も外側も白、白亜の建物です。ところが戦時中、陸軍の兵舎になっていたために汚く、真っ白のテーブルクロスを持ってくるとかえって汚く見えてしまいます。なるべく、壁や天井を見ないようにカラフルなテーブルクロスにしろというのです。七色のテーブルクロスを作りました。生地やさんから買ってきて簡単に作って、すぽっとかぶせたのです。すると、全体に花が咲いたようになって、壁や天井を見る暇はありません。そのテーブルの間に、バナナの林ができたわけです。こんなすばらしい会場は、全国どこを探してもないだろうと言うほどでした。@LF問題は料理です。一週間前に板前やコックを集めて、講習会を開きました。同じ料理を同じ味付けで作らなくてはいけない。当日、観光ホテルは30人、神田橋は25人という風に分けて、公会堂に配膳させた訳です。立派なパーティが開けました。とてもそんな発想は我々にはありませんでした。その年、私たちは6人入社しました。宮崎交通の一期生といわれております。半年くらいたった頃、社長室に新入社員は集まれというのです。公会堂を見てこいといいます。行ってみれば、今お話したとおりのすばらしい会場です。帰ってきたら、また社長室で「見てきたか?」「すばらしいです。」「君達に辞令を交付する。今日から君達は係長だ。ロータリークラブが済むまでの係長だ。」辞令も口頭で言うだけです。「トイレ係長を命じる。」「トイレ係長とは何ですか?」「公会堂のトイレの掃除だ。責任持ってやれ。人間を動員してもいいから、とにかくあの公会堂のトイレをきれいにしろ。」当時は水洗なんてありませんし、陸軍が使っていたので荒れ放題です。昔はトイレが臭いのは常識でしたが、見てみてびっくりしました。まず、汲み取りに来ていない。当時は農家が肥やしにするために汲み取りに来ていたのですが、ちょうど草取りか何かの時期で忙しかったのか、来てないのです。衛生公社なんかはありませんから、自分で考えなければいけない。まず、近郊の農家を全部回って、拝み倒して10人くらいに来てもらいました。歩いて天秤棒を担いで何往復もして、やっと汲み取り終わりました。次は、消防署に頼んで、ホースで上から水圧をかけて流しこむわけです。その後、山から笹竹をいっぱいとって来て、中を掃除しました。それを繰り返し、乾かして、においもしないほど綺麗になりました。次の問題は、便器です。黄色く汚くなっています。最初は新入社員6人で、たわしで擦りましたが、全然取れません。身分証明書を取りに行き、塩酸を買い、竹の棒に布を巻いてつけて擦ると、汚れが溶けて、便器の真っ白な磁器が見えてきました。ですが、ガスが出て皆が咳を始めました。マスクをつけて続けると、今度は涙がぼろぼろ出できます。皆で知恵を絞りあい、水中眼鏡をつけることにしました。男子トイレだけでも20くらいありましたが、新品のようにぴかぴかになりました。綺麗になると、花でも飾りたくなりますが、当時は花屋などありません。堤防に咲いている花を摘んできて、牛乳瓶にアルミホイルを巻いて花を挿すと、見事なトイレになりました。岩切章太郎さんに連絡をしたら飛んできまして、見るなり「よくやった!気持ちがいいだろう!お客さんを迎えるときはまず、一番気になるところを直すんだ。俺が一番気になってたのがトイレなんだ。いくら会場を綺麗に飾って、おいしい料理を出しても、トイレに行ったら臭い・汚いではだめだ。これで安心してお客さんをお迎えできる。誰か使ってみたか?」「いえ、まだ誰も使っていません。」「よし俺が第一号で使ってもいいか?」と言うので、「社長、申し訳ありませんが、第一号はお客様に使っていただきたいのですが。」と言うと、「そりゃそうだな。」と言ってくれましたが、本当に社長に使わせるのももったいないくらい、綺麗になったのです。トイレ係長をそれで覚えてもらえたのでしょうね、非常に出世しました。その次が、「ブラシ係長」です。何かと言うと、観光バス10台で日南海岸に行った後、夕方公会堂に戻ってきたお客さんの洋服に、ブラシをかけろと言うのです。当時は、宮交シティあたりから舗装道路がありません。しかも夏なので窓を開けています。一号車に乗ったお客さんは幸せですが、10号車当たりに乗ったお客さんは、前の9台分の埃をかぶっています。着替えたりする時間はありません。バスから降りてきたお客さんにブラシをかけろと言うのです。そこで、デパートに行って大きな洋服ブラシを50本くらい買ってきて、降りてきたお客さんにブラシをかけたわけです。皆さん「宮崎は田舎だとばかり思っていたけれど、なんて気の利くところだろうか。」と思い、成功です。次に言われたのが「おしぼり係長」です。岩切社長は「やけどするような、熱いおしぼりを出せ。」と言うのです。海岸まで行って、汗や埃でべたべたしているので、冷たいものは気持ちいいけれども汚れが落ちない、熱いものならきれいに油まで落ちます。しかし、今のように保温庫がありません。そこでどうしたかと言うと、公会堂の前に五右衛門風呂のような大きな釜に、お湯をぐらぐら沸かしておいて、当時は今のようなおしぼりもないので、白いタオルをきった物を使いました。それもまた大変な作業で、朝会社に行きまして、「家庭にミシンのある女子社員は全員社長室に集合してください。」と放送しました。30枚づつくらい配り、「ふちを縫って明日持ってきなさい。」とお願いしました。それをお湯の中に入れて使ったわけですが、それがまた大変です。入れるのはいいけれども、出すのが大変です。絞れないわけですから、長い天ぷら箸ですくい上げ、少し振ります。少し冷えて、やけどしないくらいになったところで絞るわけです。橘橋の南詰めに社員を待機させておいて、バスが見えてきたら、ライトを点滅させて知らせるようにして、「おしぼり始めー!」となるわけです。ブラシかけが終わると、おしぼりコーナーの方にご案内して、ロータリーメンバーの奥様たちが「おしぼりをどうぞ。」と言うのです。受け取ると、熱さにびっくりされるのです。「誰が絞ったのですか?」「私達です。」「ご苦労様、どうもありがとう。」と感激されました。気持ちがいいととても喜ばれました。これも大成功です。次が「うがい係長」です。おしぼりできれいになった後、うがいコーナーを作りました。「のどの中も埃だらけで、乾杯するのも気持ちが悪いため、うがいをしたいお客様もいらっしゃるだろう。全員ではないにしても、200個くらいはうがい用のコップを置いておいたらよさそうだ。」これがまた、コップを集めるのが大変です。昔は、コップは貰うものという感覚でした。酒屋さんに行って、キリンビールやアサヒビール・バヤリースオレンジなどのコップを集めてきて、水を入れて広いテーブルに200個くらい並べました。岩切社長が点検に来た時に、「こんなコップは回収しろ。宣伝文句の入ったこんなケチなまねはするな。これは酒屋さんに返して、何にも字の入っていない透明のコップを貸してもらえ。」と言うのです。そして、そのとおりにして並べなおしたら、「水をこんなにたくさん入れてはいけない。何度もすると時間がかかる。一回分だけにしろ。」と言うのです。そのとおりにしたら今度は「水の高さがそろってない。」と言います。新入社員は「岩切章太郎というのは大物だと聞いていたが、実際は小物だな。」などと思いましたが、社長の言うことなので聞かなくてはいけません。そこで、ウイスキーのグラスにすり切りいっぱいの水をコップに移しました。すると、定規で測ったように綺麗にそろいました。これは、やってみて驚きましたが、実に綺麗です。とても感心しました。「やっぱり違うね、小さい事に気づく人が大物なんだね。」となりました。このうがいもとても喜ばれましたが、捨てる場所が問題です。最初はバケツを置いておこうかといいましたが、社長が「バケツは金属で音がするからだめだ。」と言います。そこで樽を用意しました。ところがもう1つ問題が出てきました。前の人が捨てたものが溜まっていくのですから、汚いのです。そこで、私が提案したのですが、杉の葉を入れようと言うことになりました。杉の葉をたくさん入れると中が見えません。そして、和紙を二つ折りにしたものを手渡して、口を拭いてもらいます。ここまでやるとお客様は「これは大したものだ。」と思ってくれます。そして私は、「水撒き係長」でした。公会堂にバスが着く前に、水を撒くのですが、テストをすると言うのです。一週間くらい前に、公会堂の前に水を撒いているところに、岩切社長が来て「こんなに撒いてはいけない。これでは靴の裏が濡れてしまう。せっかく公会堂の中を綺麗にしているのに台無しになってしまう。絶対に靴の裏が濡れないような水撒きをしろ。」と言うのです。少し早めに撒いて適当に乾燥させて、湿ってはいるけれど靴の裏は濡れないようにしなくてはいけない。ところが15〜20分くらいすると、乾燥してしまいます。7〜8分前がいいのです。しかし、その日の天気にも左右されます。晴れ・曇りで時間差を考え、当日は晴れでしたが、ちょうどいい湿り具合になり、最高の水撒きをしました。ほかの係長が立っていると、お客様からほめられていますが、私の所には誰も来てくれません。報われざる奉仕をしたわけですが、今考えてみるとよくやり遂げたなと思います。そして、中に入ると先ほど申し上げたとおり、朝とは全然違ったカラフルなテーブルがあり、ホテル・旅館・料理屋さんなどの仲居さんがテーブルに2〜3人づついて、「お帰りなさい。」と迎えてくれるわけです。こうして、宮崎交通もそうですが、ロータリアンの方々も、こうすればお客様は喜んでくれるという、「おもてなしの心」を身をもってわかったのです。やってみなければ、お客様の顔を見なければわかりませんでした。これが宮崎交通の基礎になったわけですから、ロータリークラブはすばらしい、宮崎観光の大恩人だと思っております。「ご馳走」という字は食べ物に関係のない字です。昔の人は、なぜこの字を選んだのでしょう。水を撒いたり、おしぼりを絞ったり、トイレを綺麗にしたり、うがいのコップを集めたり、みんなが走り回ったわけです。これが「ご馳走」だなと思いました。食べ物を並べるだけが「ご馳走」ではないのです。それまでの準備、恐らくそれらを思ってこの字をつけたのではないかと思います。それを私は、52年前に学んだのです。今も昨日の事の様に覚えています。今は本当に便利になりました。予算さえあれば、何でもできます。しかし、何もない時代のあの体験が、今の私の基礎になっています。岩切章太郎さんが、今年7月16日で20回忌です。亡くなる数日前に、まさかこれが最後のお別れになるとは思わずにお会いしましたが、その時「よく来た。金のらくだを褒美にやる。」お手伝いさんに「金のらくだをやれ。」と言うのです。その時はもう、夢と現実が交錯していたのでしょう。ですが、何か意味があったように思います。金のらくだは貰いませんでしたが、岩切章太郎さんに34年間仕えたおかげで、色々な心の財産を貰ったと思っております。これを大切に、死ぬまで宮崎の人に伝えていきたい、特に宮崎交通には伝えていきたいなと思っております。最後に岩切章太郎さんの好きだった言葉をお伝えして、お別れしたいと思います。「心配するな。工夫せよ。」という言葉です。いくら心配しても解決しない、その時間があったら、これからどうしたらよいかと言うことを考えよ。今まで、宮崎の人は言うばかりで実行しない。これからは実行する時代です。心配して、工夫をして、ひらめいたら実行することです。この言葉を最後に、今日の卓話を終わらせていただきます。
(担当:黒木育子)