第2220回例会/平成17年4月15日(金)
会長挨拶(小田原 義征会長)
先週、国際ロータリー100周年、宮崎西RC創立45周年祝賀会には、百数名の出席をいただきまして、懇親を深めることができ、ありがとうございました。吉田委員長を始め親睦委員会の皆さんには大変お世話になりました。祝賀会、ゴルフでは崎田会員に格別なご配慮を願い、ミニコンサートでは大薗会員の娘さん英華さんに月光・キャッツなど演奏していただき、皆さん心が癒されたと思います。
本当に有難とうございました。
10年と1ヶ月前、1995年3月20日東京地下鉄サリン事件が起きました。12人死亡、5,500人病院で治療を受ける。日本で初めて起きた無差別テロです。
4年前横浜の市役所に勤務している友人が亡くなりました。病院でガンと診断され、余命6ヶ月と言われその通りでした。奥さんから亡くなって1ヶ月後に連絡があり、横浜の自宅を訪れました。友人の室は生前通りの状態でした。なにか思い出にと申し出がありましたので、友人は坂本弁護士を探す会に入会して活動しておりましたことを聞きましたので、「弁護士一家拉致事件」著者 江川紹子の一冊の本をいただいて帰りました。
サリン事件1ヶ月後にXデー(4月24日)新宿駅正午頃、サリン事件を起こすと騒がれていましたが、丁度その日、その時、その場所を電車で通過しましたがなにも起こりませんでした。
今でも悔しいのは警察の対応だ!弁護士宅には血痕や教団のバッチが残っていたのに「失踪」と判断しました。「坂本弁護士と家族をさがす会」が出来、さらに「坂本弁護士と家族を救う全国弁護士の会」懸賞金も2,000万円から後に5,000万円となりました。
坂本弁護士は、ある日新聞記事を見て、アメリカの弁護士で消費者運動の指導者、ラルフ・ネーダが、ゼネラルモーターズ相手に裁判して勝った事を知りました。たった一人の弁護士でも大企業に法律で闘える、そして勝つこともできることを知り、新聞記事を机の前に貼っていたそうです。
幼い頃からバイオリンと絵画に親しんでいて、学生時代にこの記事に出会って弁護士になることに決めたそうです。
学生時代、自閉症の子供の家庭教師兼話し相手を7年間も勤め、それも片道2時間30分かかったそうです。そこで人間にとって、本当に大事なギリギリのものは何かを知り、「社会的に弱い立場の人たちと共に生き、彼らのために働きたい」と言っています。
横浜法律事務所に入所早々から、自ら清掃委員長を任じ、トイレ掃除、事務所の美化に務めました。
取り扱い事件として
◯統一協会を脱会した女性の私物取り戻し相談
◯地上げ屋による運送会社乗っとり事件(組合員と共に仮眠室に泊る。和解し退職金が出る)
◯脳性マヒの男性がひったくりの犯人にされる(2年後無罪となる)
◯オウム教の被害者の会の弁護を受ける
人前結婚式をしたときには、まだ、弁護士になっておらず、1年後に合格し子供が生れる。ボランティア・地域活動、積極的に参加し、仲の良い家族が突然居なくなる。「失踪」と一言で片付けて良かったのでしょうかと思いました。
幹事報告(衛藤 清隆副幹事)
ヨ例会変更(裏表紙に記載の通り
ヨ指宿RC創立40周年記念式典のご案内@LF 期日:平成17年6月12日(日)12:30〜 会場:指宿いわさきホテル
ヨ当クラブの高見忠典会員が、3月29日午前3時15分にご逝去されました。享年72歳。既に、密葬の儀はは近親者のみにて済ませられました。葬儀告別式は4月20日(水)午後1時〜3時。 みやそう会館にて。喪主は高見明子様。多数のご出席をお願い申し上げます。
ヨ大薗英華さんより、当クラブ創立45周年ミニコンサートの謝礼のお返しということで、社会奉仕基金に寄附して下さいということでいただいております。
ありがとうございます。
出席委員会(崎田 義雄委員)
本日の出席状況(前記の通り)
45周年実行委員会(井手脇 万詔委員長)
たくさんの方が創立45周年に参加をいただきました。改めて御礼を申し上げたいと思います。特に親睦委員会におかれましては、式の運営、設営当にご協力いただきまして、ありがとうございました。特に当日はブラッドリー会員、岡会員が司会進行ということで、大役を果たしていただきました。感謝申し上げたいと思います。
翌日はゴルフということで、滞りなく45周年の行事が済みましたこと、改めて感謝を申し上げて御礼にかえさせていただきます。どうもありがとうございました。
3SAA(衛藤 清隆副幹事)
ヨ松田公利会員 本日は「遺言の日」。近畿弁護士会連合会が制定。ゆ(4)い(1)ご(5)んの語呂合わせ。
ヨ久保 裕会員、金丸憲史会員、菊地 信会員、マイケル会員、ブラッド会員 本日は「よいこの日」「よ(4)い(1)こ(5)」の語呂合わせ(家に未成年の子どもがいる会員が対象)
ヨ小田原会長、井手脇副会長 無事45周年記念例会が終了しました。ご苦労様。
ヨ竹内三郎会員、植松孝一会員、衛藤清隆会員 45周年記念ゴルフコンペがフェニックスカントリークラブで開催され、竹内会員(3位)、植松会員(2位)、衛藤会員(1位)の結果でした。
ヨマイケルSAA、森重幹事 ダブルブッキング代行 ハッピーをいただきます。
プログラム委員会(日高 久夫委員長)
本日は、新入会員の卓話ということで、渡辺会員と澤野会員に15分ずつお願いしたいと思います。
卓話(渡辺 久之会員) 今日はせっかくの機会を与えていただきましたのに、特に皆さんに聞いていただくような話ではありませんが、自己紹介を兼ねまして私の故郷の風景や最近思った事などをお話させていただきたいと思います。
前にも少しお話しましたが、私は1952年(昭和27年)4月に、新潟県北蒲原郡豊浦村大字滝沢(今は新発田市になりましたが)という、新潟市から東北東に約30@JSキロ、広い新潟平野(越後平野・蒲原平野とも言いますが)の東端、小高い山すそにある40戸程度の小さな集落で長男として生まれました。戦前は小さな地主だったということですが、農地解放で水田がわずか5反歩、親父は学校の教師をしていました。そこで小学校、中学校、高校と過ごし、小・中学時代は野良仕事が下手な母親の手伝いを、自分で言うのもなんですがほんとうによくやってました。高校は野球ばかりで勉強した記憶はありません。おかげで一浪してしまいましたが。
新潟ですから、もちろん冬は雪が降ります。昨年震災に見舞われた中越地方みたいに一冬に7メートル、8メートルといった豪雪地帯ではありませんが、昔は多い年には人の背丈以上は積もったと記憶しています。だいたい1メートルほどになったら屋根の雪下ろしをやるわけですが、寒波が長く居座ると、1週間に2回も3回もやることがありました。農家はほとんど大きな造りで、その分、下ろす面積も広く、みんな汗だくでやったものです。それでも農村地帯なら下ろしっぱなしで済むのですが、街場はそうはいきません。下ろした雪(屋根にあったときより非常に重くなっている)をさらに川などに運んで捨てる重労働が待っています。近くにスキー場でもあって潤うなら別でしょうが、今でも私の田舎では、雪を親の敵みたいに思っている人たちがほとんどです。当時の大人たちは「この雪が全部お金だったら」とか「雪が降ると庭を散らかしていても見えなくていい」などとよく言っていたものです。
それから、通学も大変でした。小学校までは片道2キロ半、学区内では一番遠かったのですが、当時は当たり前ですが除雪車があるわけではなく、人の足跡をなぞってできた、ようやく人一人が通れる獣道のような道を、脇に反れてぬからないようにして歩くわけです。吹雪けば道もなくなったり、分からなくなったりですから、帰りは先生の引率で集団下校したこともよくありました。雪の話をもう少しさせてもらいます。物音一つしない静まり返った夜は、まさに深々と雪が降っているということで、暖かく感じます。朝は一面雪の原で枯れ木に花がさきます。吹雪は逆です。寒くて濡れタオルが数時間で凍ってしまいます。電線が一晩中ビュービュー鳴り、寝ていると床下に入り込んだ風で畳と一緒に身体が浮き上がるほどでした。吹雪のときは当然ですが気温が低いため粉雪で、吹き溜まりができる程度で、たいした積雪はありません。冬で気分がいいことと言えば、めったにないことですが快晴の日です。近くの小高い白銀の山でウサギの足跡を追いながら罠を仕掛けたりしながらやったスキー。それから、高校時代はいわゆる「汽車通」で、最寄の駅まで約4キロ。雪道は歩いて1時間ほどかかります。部活が終わって夜8時ごろ、人が誰も通らない中、腹を減らして家路を急ぐわけですが、天気のいい日は、日が陰るとバリバリに凍り始めます。澄み切った空に見える星や月は(宮崎にも星がきれいな所がたくさんありますが)、「木枯らし途絶えて冴ゆる空より」から始まる「冬の星座」の歌詞がまさにこれだと。何と言えばいいのか、神々しい光景でした。今でも同じ光景に出会えるとは思いますが、今の車社会では、冬の夜にのんびりと空を見上げるなんてことはないのかもしれません。
冬も終わりに近づくと、日中気温が上がるため、雪が解け出して水分が多くなりザラザラした状態になります。これが夜、放射冷却によって凍るわけです。そうなると、まだ、田んぼでも小川でも、畑でも一面雪の原ですから、朝は道を通らずに一直線に学校まで行けるし、自転車でどこまでも行くことができました。それを子供のころ「凍み渡り」と言って楽しみにしていました。そうこうしているうちに、雪に覆われた田の所々に窪みができ、割れ目ができて小川の流れる音が聞こえるようになります。そうなると、猫柳の花が咲き、それからようやく彼岸を迎えることになります。
雪が消えると田植えの準備が始まります。春は私にとってとても懐かしい匂いと音があります。今のように機械化される以前は、苗代に蒔いた種籾の上から、発芽を促すためにくんたん(燻炭?)をかけ、油紙(後にビニール)で覆ったわけですが、この燻炭というのは籾殻を原型を留めたまま黒く炭化させたものです。水仙の花がさくころ、庭先で細かい穴の開いたブリキの円錐形の上に煙突が出たような状態で、その上から籾殻を被せ時間をかけて燻すのです(燃やすと灰になって使えません)。今はほとんど作っていないと思いますが、私にとってはこれが「春」という大好きな匂いです。そして春の音は田起こしの音です。田起こしはそれまで人や牛が鍬(くわ)や鋤(すき)を使ってやっていましたが、小学校の4,5年のころから耕運機が普及し始めました。この単気筒のストロークの長い音が人間の鼓動の波長に合っているようで、私には実に心地良く聞こえるのです。田起こしが済むと、水を張って代かきが始まります。そのころから田植え時期になり幾分暖かくなると、蛙が一斉に鳴き始めます。「うるさくて眠れない」という人もいるようですが、私はこの合唱を聴きながら寝るのが大好きですし、何故か安心して眠れます。ところで、宮崎ではとっくに花見シーズンも終わっているようですが、新潟の片田舎の桜はいつ咲くのか。だいたい私の誕生日である4月の20日前後に咲くことになっています。さて、田舎の冬と春の話を長々としてしまいましたが、私は単身赴任で、家は埼玉県の春日部市という所にあります。家族は妻一人のほかは、子供が男、男、女、女の順に4人。上2人は既に成人し、長女がこの春から大学、ニ女が高校2年になります。この長女、家の中で根の生えたような出不精で、母親とすぐ上の兄、それに妹に対しては強く、唯一の天敵が長男といったような娘ですが、この長女が昨年暮あたりから京都の大学に行くといい始め、この3月末にはとうとう勝手に行ってしまいました。家から通える首都圏ぐらいならと考えていた親としては多少心配ですが、自分で選んだことですから、頑張ってもらうしかありません。万葉集に「旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群」という歌があります。今から1300年ほど前に、遣唐使のお母さんが息子の船出にあたり無事を祈って読んだ歌だそうです。私は文学青年でも何でもなく、高校時代は古文が一番嫌いな教科でしたが、どういう訳か、この歌だけは不思議と頭の片隅にあったようで、娘が京都に行くと決まってあらためてこの歌を思い出しました。当時、唐に渡るといえば、今なら月どころか火星あたりに行くのに等しいことだったと思います。埼玉から京都までたかだか600キロ程度、新幹線で3時間もかからない所に行くのと、無事に帰って来れないかも知れない遣唐使を一緒にするなと叱られそうですが、親の心は大昔も今も変わらないと思います。この歌をどう捉えるかは人それぞれでしょうが、私には単に無事を祈る優しさだけでなく、何か親の無力感のようなものが感じられます。話は多少飛びますが、小学校のころ卵を取るためにチャボをかなり飼っていまして(放し飼いのようなものですが)、しばらく見ないなと思っていた雌鶏がある日、雛を10羽ぐらい連れてくるんです。人が近づくとサッと親の羽の下に隠れるんです。こうして親の下にいるときは、羽で覆って守ってあげることもできます。しかし、親の下を離れたらこうはいきません。旅に出たら(世の中に出たら)、ツツガムシに刺されないように、盗賊に遭わないように、回りが皆いい人でありますように、天の鶴群に祈るしかできない親の辛さみたいなものがにじみ出ているようにも思います。もし親に財力や権力がいくらあったとしても、どうしてあげることもできない、そういった思いです。
私も高校卒業後、故郷を後にして35年になります。大学時代、会社に入ってからも行く先々(この宮崎もそうですが)で多くの天の鶴群にお世話になってきたように思います。普段は忘れていることですが、既に亡くなった人を含め、あの人も、あの人も私にとっては鶴群だったんだと思い出し感謝しているこのごろです。ただ、自分がこの歳になるまで、はたして誰かのために天の鶴群になったことはあるのかと考えたとき、深く恥じ入るばかりです。それでもいつかはチャボの羽の真似事でもできればと思っている次第です。
最後になりますが、サケは生まれた川を下って4年ほどでまた戻ってきます。石狩川で生まれたサケは、アラスカやカナダやロシアの川ではなく、石狩川に戻ります。水の匂いでも覚えているんでしょうか。私も海に出て40年近くなろうとしています。宮崎は気候も人も「温暖」で、ほんとうにいい所だと思いますし、「定年後は宮崎に住んだら」と言ってくれる人もいますが、いくら冬が厳しくても、燻炭の匂いに誘われて、今は先祖代々と両親の位牌がある田舎の家に帰るのが一番いいのでは―と思っている今日このごろです。
卓話(澤野 淳次会員)
本日は、貴重なお時間を頂きまして有り難うございます。
入会初日に多少お話させて頂きましたが、今日は、私が、当社住友生命に入社した頃から現在迄を話させて頂きます。
S.52年福岡の西南学院大学を卒業したのですが、公務員を希望しており、前年からいろいろと受験すれどすべて失敗、卒業間際にばたばたと、一般の就職活動をしました。今まで何もせずに、急にやる訳ですから、上手くいく筈もないのですが、持ち前の明るさと、根性で、大阪の会社に何とか内定を頂ただきました。が、しかし、正月の三日間酒を飲んでいる内に、これで良いのか、本当に良いのかと気持ちが固まらず、結局内定をご辞退し、卒業後、もう一回公務員に挑戦する事にしました。ですが、世の中そんなに甘くありません、また、すべて失敗……途方にくれた頃、当社の大学OB(我夫婦の仲人となる方)と知り合い入社を勧めて頂きました。
生命保険の何たるかを知らぬまま、当時大阪中ノ島の本社へ向かいました。何が良かったのか、よくわからないまま、採用通知が届きまして、兎に角、周囲の人は、安心したのではないでしょうか。ここまでの話ですと、私が本当にいい加減のようですが、当社に入社して驚いたのは、兎に角、無茶苦茶厳しい、当時の上司と言う上司はすべて営業叩き上げの方ばかりで、理屈よりも、兎に角やってみろの世界でした。現在の当社とは、全く違う会社の様でした。入社以来、各地を転勤してまいりましたが、大阪豊中(3年)、横浜(4年)、京都(5年)、久留米(3年半)、新居浜今治(3年)、福岡(4年)、佐賀唐津(3年半)、宮崎、赴任した先々で、良い上司(きびしいけれど)、良い仲間に恵まれて今日迄やってこられました。
先日、最初に仕えた支社長(現在定年)から、お電話を頂いた時、25年前の私つまり新人の私に戻っておりましたが、一言、「支社長が、楽しく仕事をしないと部下は不幸、楽しんでやれ」と言われました。正直、まだまだ、そこまで出来ていないと思いますが、精一杯やりたいと思っております。
もう一人、この宮崎に来て頂いている家内について、時間があればお話させて頂きます。
最後に、当クラブは、当社先輩支社長が、長年お世話いただいたクラブだと、先日、石井秀樹(元常務)、門田 廣(現副社長)より、お話いただきまして、澤野、お前も一生懸命活動するようにと、激励頂きました。まだまだ、未熟者の私ではございますが、先輩諸氏に、恥じぬ様頑張らせて頂きますので宣しく、ご指導お願い致します。
(担当:押川幸男)