第2217回例会/平成17年3月25日(金)
会長挨拶(小田原 義征会長)

今、宮日新聞に連載されております「たかが岩登り、されど岩登り」(都城信用金庫 三沢澄男理事長)の中に出てくる、阿部さんの事をお話します。昭和34年皇太子殿下と美智子妃殿下が結婚された年に宮崎財務部長に安部友彦さんは着任されました。その後、宮崎太陽銀行そして宮崎カントリークラブの監査役をされた方で、80歳を過ぎてもゴルフをされ、温厚な紳士でした。安部部長が秋も深まったある日「飲ん方」の席で、君たちも気候もよくなったことだし、薄暗い映画館で時間をつぶすより山にでも登ってみよと言われる。宮崎市内から双石山へ登るには、列車で清武まで行き、駅から1時間半ほど歩いて登山口の塩鶴に行くか、バスで登山口まで行くか、宮崎−清武間30円、日曜日に双石登山に行ってみると、カッターシャツにズボン、トレパン、野球のユニホーム姿とさまざまの服装で登山をやっている。安部部長だけが登山者の姿であったと。
 重要な登山仲間と指導者達との出会いも双石山、尾根歩きから岩登りまで幅広い登山技術の習得と錬磨の場、後年日本の山から海外の山を目指すようになったのもたかが標高五百メートルの双石山であったと書いておられます。
 私も高校生の頃、ゲタ履きで登ったりしておりました。友人一人が双石の山小屋を修理するので寄附集めにみえ、砂、セメント、木材等を担ぎ上げ修理しました。ヒマラヤにも登った友人で、今は、ありんこ山の会代表になっております。
 ボランティアで今までに百人の難病の身障者を韓国岳へ担ぎ登山をしております。その友人になぜ山男になったのかと聞きましたら、君に双石山につれて行かれたのが始まりだと言われ、初めての双石登山がこんな存在になるとは想像もしませんでした。
 西RC18代会長 安部友彦様が(この時地区が変わる373地区から273地区へ)、会長エレクトに指名された時、銀行を退職した頃で「お前は暇になったろう」と。「会長をやる資格がない」と、断ったら、後でどうせやらねばならぬからやれと言われ引き受けましたと言っておられます。
 会社を退職と同時にRCも退会されますが、亡くなられるまでRC会員であられ尊敬する先輩でありました。
 第1例会が7月1日、最終例会が6月30日、偶然にしては出来すぎの気がしますが、現実であります。その時、事務局員の横井みよ子さんが入会しています。
 第69回国際ロータリー年次大会が東京で開催され、西RCから、竹野PG、橋本(一)、竹内PG、長峰(市)、植松(熊)、安部さんの6名が参加されてます。安部会員が井上靖「孔子」を読んでと卓話されましたことがありました。私も読んでみましたその内の一説です。
・自分の場合は老人には安心され、友だちには信ぜられ、幼い者には慕われるそんな人間になりたい。
・「静かな倖せ」 (村人たちにとっては昼の労働の時間が終り、今やこれから夜の休息の時間が始まろうとしている)こういう思いを持って故里の村に点りつつある燈火を眺めることは、人間の数少い倖せの一つである。


幹事報告(森重 勝雄幹事)
ヨ例会変更(裏表紙に記載の通り)
ヨIMが3月27日(日)午前中開催されます。多くの方々の出席をお願い申し上げます。
ヨシカゴ国際大会の旅行の概略が出来上がりました。その打ち合わせを例会終了後にこの場所で行いますので、関係のある方々は、お残り下さいますようお願い申し上げます


出席委員会(岡崎 優委員長)
本日の出席状況(前記の通り)


SAA(マイケル・インディゴ副SAA)
ヨ森重会員 娘が結婚しましたと自己申告を頂きました。
ヨ前田会員 田崎博俊会員のスピーチで発表があったのですが、前田会員が設計した南九州大学が「わかば」で放映されました。
ヨ日高 均会員、菊地 平会員、菊地 信会員、上園会員、渡辺会員 電気記念日 1878年3月25日、東京・虎の門で日本初のアーク燈50個が大衆の前で灯された。このことを記念して、日本電気協会が1955年にこの日を「電気記念日」と制定されました電気があるから商売ができている会員の皆様からハッピーを頂戴します。
ヨ田崎博俊会員よりロータリー財団に1,000ドル寄附されました。
これは「メモリアルコントリビューション」ならびに「メモリアルポールハリスフェロー」にもなるとの事。


卓話(松田 公利会員)
私とロータリーの関係 自己紹介
私は、昭和31年に、北郷町に生まれて、日南高校卒業後、熊本大学法文学部法学科に進学しました。27歳の時に、司法試験に合格し、29歳で弁護士になりましたので、今年は、ちょうど、20年目の節目の年となります。
 バモスの会(会員) バモスの会は、正式名称を宮崎イベロアメリカ国際交流協会で、平成5年に設立され、私も、そのメンバーとなっています。その年に、世界ベテランズ陸上競技大会が宮崎市で開催されましたが、その際、スペイン語の通訳ボランティアを中心に作られた会です。スペイン、ポルトガル、中南米(メキシコ以南の国)に興味があり、その地域と交流しようということを目的としており、一番の目玉は、中米グアテマラに学校を作ったことです。私は、スペイン語はほとんど話せませんが、グアテマラの留学生のホセ氏に誘われて、グアテマラを旅行したことがあります。そこでは、マヤの都と言われる、ジャングルに囲まれた「チカル」の遺跡が一番印象的でした。
 実は、グアテマラの学校を作ると時には、300万円から400万円のお金が必要でしたが、そのお金は、西ロータリーの会員の設計士の前田先生の奥様が声楽家で、仲間の人達と一緒にチャリティーコンサートを開催してくださり、作ってくださいました。そのお金がなかったら、学校はできなかったことでしょう。
 このバモスの会に対して、平成17年2月18日、国際奉仕(サミット)賞として10万円を寄付してくださり、本当に感謝しています。
ホームホスピス宮崎(理事) ホームホスピス宮崎は、ガンやエイズにかかった終末期の人達が、自分の最後を、自分が望むようなやり方で過ごすことができるようにできるようにすることを目的に設立された、NPO法人です。 実際、癌患者のほとんどの人は、自宅で最後を送りたいと思っていても、病院で、いわゆるスパゲティ状態にされて、親族の看護も制限される状態で亡くなっています。本当に、これでよいのかという問題意識から作られている会です。 そのようなホスピタリティを持った、医者、看護士、ボランティアの養成や、病院で過ごすのは嫌だが、自宅にも戻れないという人のために、「母さんの家」という施設を作って、家族、ボランティア、かかりつけ医の協力で、最後を看取るという活動をしています。また、「聞き書き」で、その人の人生を語ってもらい、文字にするという活動やそのようなことのできる人の養成も行っています。
ホームホスピス宮崎には、平成16年2月23日、地区補助金22万円、平成17年3月14日 南ロータリーの奉仕賞として3万円をいただいております。
社会福祉法人石井記念友愛社(評議員) 平成17年3月27日、宮崎中央分区勉強会2部において「石井のおとうさんありがとう」の映画をみることになっていますが、この映画の製作を中心的に担ったのは、石井記念友愛杜の理事長の児嶋草次郎氏です。私は、この石井記念友愛杜の評議員をさせて頂いています。 児嶋氏は、「石井のおとうさんありがとう」の主人公の石井十次のひ孫にあたります。私は、この映画の製作について、当初から相談をうけており、石井十次役の松平健氏との食事会に呼ばれたりしています。 この映画は、殺伐した現代社会において、子ども達にどのように接したらよいかの良い見本となります。今後も、上映会が各地で催されますので、応援をよろしくお願いします。
GSE(研究グループ交換)の通訳担当GSEに弁護士が含まれている場合には、私が通訳のお手伝いをさせて頂いておりました。とても勉強になりました。
宮崎奨学金の会 ロータリーには、米山奨学金という制度があるようですが、私も、宮崎奨学金の会のメンバーとして、ベトナムの優秀で、将来ベトナム国家に尽くすという学生のために、毎月、5000円の奨学金を寄付しています。 ベトナムは、中国に約1000年間、フランスに約100年間支配されたからか、食事がとてもおいしく、しかも、安いのです。 私は、昨年2回ベトナムを訪問しましたが、毎年でも行きたくなる国です。皆様も、宮崎奨学金の会に入っていただき、ベトナムの大学生を応援して頂きたくお願い致します。 なお、宮崎奨学金の会については、私のホームページ(http://homepage3.nifty.com/matsu_hou/)に載せておりますので、参照してください。
 私に割り当てられた時間が参りましたので、この辺で終了させて頂きます。ご静聴有り難うございました。


卓話(ブラッドリィ・ヤックスリィ会員)
 みなさん、こんにちは。今日は私が日本にいる間に経験した興味深い出来事とその経験が私の人生にどう生きているかについてお話ししようと思います。まずは、簡単な自己紹介から。私のフルネームはブラッドリィ・エドワード・ヤックスリィといいます。ブラッドと呼んでください。苗字はヤックスリィですが、発音が難しいですね。だいたいの人がヤクスギ(屋久杉)と間違えます。 私はオーストラリア クイーンズランド、サンシャインコーストの出身です。ブリスベンから100キロほど北にあり、気候は極めて宮崎と似ていてそんなに寒くありません。妻は富永千香、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、フリーのアナウンサーをしています。6才の娘セレナと2才の息子カイの2人の子供がいます。
 大学では映画・ビデオの制作とビジネスマーケティングの2つを専攻しました。 卒業後ビデオとコマーシャルを制作する会社に就職し、ヨット建築者とその他のビデオを制作するためにヨーロッパを回り、空いた時間にアジア各国を旅していました。その時たまたま旅行者として立ち寄った日本で妻と出会い、すっかり宮崎に魅了されてしまったのです。それからもう9年になります。 宮崎に来て1週間目、私は自動車事故にあい、江南病院に2週間入院しました。誰も知らない宮崎でまだ仕事もしておらず、大変辛い時を過ごしました。 オーストラリアに帰ろうかとも思いましたが、失うものは何もなかったし、せっかく気に入った日本の想い出をこんな形で終わらせたくない、と思い留まりました。皮肉にも私を車ではねた人は8年間アメリカに住んでいて1週間前に日本に戻ったばかりの女性でした。彼女の運転技術は日本では通用しないひどいものだったのです。 怪我した足を30〜40針縫って退院してすぐたくさんの人達が私の生活を助けてくれました。宮崎の人はなんて親切で心優しいのかと感心しました。他にも面白い体験をたくさんしました。最初に日本に来た時、日本人の話す英語はなんてぶっきらぼうなんだろうと思いました。普通英語では誰かを車に乗り込むように誘う時、“OK,let's go"「じゃ、行こうか」と言いますが、ある日本人の友達は“get in!”「入れ!」と言ったのです。着いたら“Well,we're here"「着きましたよ」などと言いますが、“get out!”「出て行け!」です。まあ、私の日本語の能力も笑ってしまうぐらい乏しいものでしたが……。
着いてからは手持ちのお金が少なくてコンビニへランチを買いに寄りました。とてもお腹がすいていたのです。何個かのパンと牛乳、アイスクリームを買いました。食べてみてアンコ入りのパンだと分かったのです。甘い豆の味に慣れていなくて食べれませんでした。オーストラリアではほとんどの豆が甘くはありません。次に牛乳なのですが小豆牛乳でした。噴き出してしまいました。そしてイチゴだと思って買ったアイスクリームもやっぱりあずき味なのでした。日本語を読むことも出来ず、店員さんと話すことも出来ずに失敗を重ねるのは本当にイライラがつのりました。それで、その話を日本人の友達にしながら「困ったね」「大変ね」「しようがないな」などの言葉と共に「これは甘いですか?」と聞くことも覚えました。
アンコといえば、日本人の友達に夕食に招かれた時のことです。彼は私がたぶん好きだろうと思って「あんこう鍋を作る」と言ったのです.私の返事はもちろん、「ごめんなさい、アンコ、ダメなんです。」(笑い)またある時、木崎浜海岸でサーフィンをしていた時クラゲに刺されました。すごく痛くてひどい傷跡が残りました。友達からその傷跡について尋ねられると、私は「“からあげ”に刺された」と説明していました。その度に笑われて何故なのか分かりませんでした。
 私にとって、日本と日本語は終わりの無い冒険のようなものです、毎日新しい自分を発見することへの挑戦です.日本について一番感銘を受けたのは、日本人は他人に対してとても思いやりが深く正直で我慢強いことでした。興味を持って相手と接する事はとても素晴らしいことです。また、東京でおばあさんに駅までの道を尋ねたときのことです。そのおばあさんは一人で歩くのがやっとという状態だったにもかかわらず、駅までの10分ほどの道のりをわざわざ案内してくれたのです。その優しさと、思いやりは忘れることができません。
 またある時、新宿駅にカバンを忘れたことがありました。一日何千人もの人が行き交う新宿駅で、それは絶対に誰かが盗ったに違いないと思ったのですが、翌日、カバンは忘れた場所にそのまま残っていました。
 私はまたマイケル同様に宮崎にインターナショナルスクールを作ることを目指しています。私は英語教育を始め、いろいろな点で貢献したいと考えています。
 まず、宮崎を今までなかったような国際的なレベルに引き上げ、若者が活躍できる機会を与えるために英語を普及させたい。そして世界の投資家が国際的な活躍ができる人材のために宮崎に機関を設け、子供達が世界へ向けて羽ばたけるようにチャンスを作りたい。つまりは宮崎が国際的な人材を派遣できる拠点として日本人にも外国人にも数多くのサービスができるように努力したいのです。
 最後に、ロータリークラブの会員として受け入れて頂き感謝すると共に、その理念を信じ幅広い活躍ができればと思います。私の日本語の能力は限られていますが、何らかの形で出来ることが必ずあると思います。オーストラリア風に言うなら“Think globally act locally”「地球規模で でっかく 考えよう。山来ることは まず足元から始めよう。」です。ご静聴ありがとうございました。
  (担当:押川幸男)