第2211回例会/平成17年2月4日(金)
1.会長挨拶(小田原 義征会長)
西RCには、アートリークラブがあり、皆さんそれぞれ楽しんで活躍されています。吉賀会員昨年卒寿(90才)時、山形屋デパートで個展を開かれました。
今、県立美術館で2月13日までサントリーコレクション展(81点)が開催されております。
2年連続日本一庭園になった美術館が島根県安来市に足立美術館としてあります。ちなみに2位京都桂離宮、3位同じく京都金閣寺の西丸庭園です。足立美術館は遠くの山々が何層にも重なって格好の借景となり、春・夏・秋・冬の景気が変わる。創設者足立義元、昭和45年72歳のとき足立美術館一号館を建てる(庭園内の一角に生家があった)、横山大観との出会い、昭和22〜23年頃、大阪心斎橋通骨董屋「蓬莱山」80号値段8万、その頃船場の土地1坪3,000円。昭和15年紀元2,600年(八紘一宇の塔は昭和15年11月25日完成)に開かれた。「海に因む十題」「山に因む十題」当時1点3,000円が一幅25,000円で買上げられ、20点50万円をそっくり陸海軍省に寄付して戦闘機「大観号」をつくった美談があります。
昭和48年田中角栄総理の時、絵画1/2〜1/5まで(オイルショック)暴落したけれど、横山大観だけは下落しなかったので大観を集めるきっかけとなる。そして、大観はまさに私の「一生の恋人」と言っています。
珍しい仕掛があります。「生の掛軸」たて132cmよこ74cm床の間の壁に穴を開け、背景の庭を生きた山水画としているし、茶室もある周辺の無粋な電柱は景観の邪魔になるので中国電力にお願いして地中に埋めていただいた。自分は一木一草まですべてを記憶している。
細川隆元が美術館と庭がマッチして西の離宮と誉めた。遠くはボストン美術館の館長もみえている。美術館は1号館、2号館、大観特別展示館からなり、庭園は1万3,000坪、横山大観200点ある(入場料2,200円、年間50万人入場)。
日本庭園と日本画の二本柱とした美術館であります。
美術館を建ててから人間が少しずつ変わってきたと思う。それは社会福祉とか社会への還元を真剣に考えるようになり、物心両面でするようになった。「九十坂越えてますます夢ロマン」平成2年92歳で亡くなっております。
本当は今日、菊地平エレクトの壮行会をしなければならないのでしょうが、明日地区役員で壮行会を行うことになっていますので心を込めて送り出したいと思います。2月18日(金)〜2月25日(金)アメリカ、アナハイムでのガバナーエレクトの研修会に出発されます。どうぞご健康にくれぐれも気をつけていただきまして、帰ってみえた時には英語で御挨拶をしていただきたいと思います。
西クラブも45周年で3名のガバナーを輩出致します。これも皆様会員の暖かい心で支援・ご協力のたまものだと思い厚くお礼申し上げまして私の挨拶とします
2.幹事報告(森重 勝雄幹事)
@例会変更のご連絡 (変更連絡通知のとおり)
A新手続き要覧 料金$7 ご希望の方は事務局迄
Bロータリー手帳と全国ロータリー会員名簿 ご希望の方は注文書を事務局まで
CNTTからのアンケートは個人情報の観点からお断りしましたのでご報告します。
(別紙のとおり)
D新入会員の所属委員会
岡会員、金丸会員、屋久杉会員は親睦委員会へ、渡辺会員、松田会員、澤野会員は社
会奉仕委員会へ所属して頂きます。
3.出席委員会(金丸 憲一委員)
本日の出席状況(前記のとおり)
4.親睦委員会(上園哲朗委員)
2月の結婚祝い 阿南育男会員、押川幸男会員、崎田義雄会員、藤本廣年会員
2月誕生祝い 稲倉正孝会員、植松孝一会員、岡崎優会員、金丸宜裕会員
崎田義雄会員、高見忠典会員、長崎秀峰会員
5.新世代委員会 (児玉寛太郎委員長)
学校教育支援「協力者リスト」及び「協力企業リスト」への登録のお願い
6.SAA(マイケル インディゴ会員)
ハッピーボックス (省略)
7.新入会員卓話 (金丸宜裕会員)
皆さま、こんにちは。金丸宜裕と申します。
入会間もないこの時期に、「なにかしゃべれ!」ということですが、私は昭和39年東京オリンピックの年の生まれの40歳の若僧でありますから、皆様の前で、「皆様のためになる話」とか、「有意義な話」はたまた「何かに物申す」などということは、はなからできるはなしではありません。なにか自己紹介みたいなものを話せということですので、本日は私が大学を卒業した年、昭和61年の1年間の、失敗が重なってひとりぼっち谷底に落ちてしまった話をします。自分ひとりの力なんて本当にちっぽけなもので、周りの人間の助けやネットワークこそが自分を活かす道であるということを理解した現在、やっと失敗の原因が理解できるような気がします。ロータリークラブでお世話になるにあたり、この人と人とのつながりの大切さを再認識するためにも、自戒を込めて話を致します。
中学校、高校とまったく、何を目的として勉強するのかわからないまま、ただ点数のよい順番に並べられることに対して、一生懸命努力をして過ごしました。指導する教員も、教え子のその後の人生などどうでもよく、とにかく国立大学で親が喜びそうな学科を無難に勧めて、福岡県の九州大学工学部建築学科へ進学しました。
福岡での一人暮らしに自制心はなく、酒ばかり飲んで、九大落語研究会メンバーとして九州各地を「さすらい寄席」と称して、転々としているうちに、あっという間に大学四年になりました。するとすぐに自分の研究室の教授、この先生が病院建築と学校建築の大家だったんですが、その先生に呼びつけられて、「お前、卒業したらおれの設計事務所に来い。」それで、就職活動は終わりです。そして昭和61年の年が明け、冬が来ました。
これで、私が能力と適性を持ち合わせていれば、まったく問題なく人生が過ぎていったのかもしれません。が、本来相当な設計能力がないと入れない設計事務所に、建築設計の実力がまったくないまま、教授の一言にほいほいと乗った私は、そううまく仕事をこなすことができませんでしたし、上司との人間関係は相当厳しいものがありました。私はまったく体力も気力も続かぬまま、春が過ぎた6月、なんと3ヶ月で会社を辞めてしまいました。
ここで人間関係をぶっちぎってしまったのが、いけませんでした。
福岡のワンルームマンションに、梅雨の時期、ひとりぼっちです。宮崎なんかに帰れません。これから何の仕事に就けるのか、いったい何をすればいいのやら、なにはともあれ、まったくお金がありませんでした。なんだか急に社会から疎外された感じで、それが生まれてはじめての体験で、何もすることがない毎日に気ばかりあせっていました。
この境遇から、いったいどのような脱出方法があるのか、私は恥を忍んで大学の助教授のところへ相談に行きました。結果、夏が終わるその年の9月からの半年間だけ、久留米工業大学建築設備工学科の助手の正社員の職につくことができました。福岡市の箱崎というところから久留米市のはずれのほうまで、片道1時間半かけて通勤しました。
やっとありついた仕事は、その大学の教授の論文を書くことです。文章を書くというより、数字をグラフや表にやたらめった表現し、なにかを結論づけるといった作業を延々とくり返しました。1ヶ月まるまる研究室に閉じこもり、机にすわって字を書いていると、さすがにこの仕事は一生できないと思いました。もちろん最初から6ヶ月間、月給10万円の約束ですから、夜遅くまでの仕事のかたわら、次の職を探さなければなりません。
いったんレールからはずれると、つなぎつなぎの職探しのなんと情けないことか。もうこの時点で2つ目の仕事についている訳で、正直民間企業の新規採用は非常に厳しい対応でした。
と、ある日、学生向けの就職の掲示板を見ると、「佐賀県職員募集、建築、若干名」という小さな張り紙がしてありました。公務員になるイメージなどありませんでしたが傷だらけの私でも平等に受験資格はありました。試験を申し込み、年末の試験会場につくと受験番号が80番めくらいで、受験者がこんなに多いのかと、その狭き門に、がっかりしました。その冬は親に会わす顔も無く、宮崎にも帰りませんでした。
年があけて、佐賀県佐賀市にある佐賀県庁に合格者が掲示されます。まったくお金が無い私は、鈍行列車に乗って今のJR鳥栖駅で乗り換えました。車窓は、右を向いても左を見ても、たんぼばかりです。私はこんなところでいったい何をしているのでしょう。電車は各駅停車で、しかもなかなか駅を発車せず、前に進みません。私はなんともこの孤独感にやりきれず、涙が出てきました。やっと佐賀駅に着き、てくてくと歩いて合格発表の掲示板を見に行きました。掲示板を見てぼう然としました。名前が私だけ、たった一人だったのです。これからどう生きていくのかを、またも悩むことを許されず、再び人生の別のベルトコンベヤーに乗った私は、この見たこともない佐賀の街に住まいを移すため、急いで引越ししをしなければなりませんでした。やがては宮崎を捨てるか、佐賀県庁職員を辞めるかという選択を迫られるであろうと、うすうす感じながら私は20代をこの街で過ごすことになります。
以上が、19年前の、私が22歳のときの、1年間の話です。
22歳といえば、いろいろな可能性があると思うのですが、現実はもがき苦しみました。一人ぼっちで、世間相手にドタバタ戦った結果、ほんのちょっとしたミスで、ものすごい深みにはまってしまいました。
30歳で宮崎に帰ってきて10年が経ちました。つくづく人間関係の大切さを思い知ります。今が本当のスタートラインであると感じます。
つまらない話でしたが、人間関係の大切さを肝に銘じるため、その原体験となるひとり相撲の失敗の日々をお話させていただきました。今、西ロータリークラブに入会したばかりです。これからどうかよろしくご指導お願いいたしまして、つまらない話を終了させていただきます。ありがとうございました。
8.菊地 平会員 ガバナーエレクト
ガバナーエレクト情報の中に栃木県のガバナーエレクトが前頭葉脳内出血でたおれました。健康第一で行かなければならないと思いました。米山奨学会の研修会で毎年1000名ずつ奨学金を渡していましたが、20億の奨学金が今は18億しか集まっていません。
ことしは800名を米山奨学生にしました。鹿児島・宮崎地区では例年13名程出すのですが今年は7名に終わりました。それほど寄付が集まらなくなった訳です。島津さんが理事長を務めておられますので年間1万円の普通寄付をしましょうと呼びかけましても、個別寄付を合わせても平均8000円にしかなりません。そうすると奨学生の人数も減っていきます。論語に「一身に二生を得る」という言葉がありますが、私はこの使命を頂きまして、名誉と重責は大変だと思っております。カバナー要覧350ページが送られて来ました。一生懸命、勉強をしております。まず実態を把握することでこの仕事を始めようと考えています。スタッフの皆さん、西クラブの皆さんにも大変お世話になることを本当に感謝申し上げます。明日は私の壮行会を行っていただくことになっています。また、久保さんには「癒しの中国茶」というプログラムをお願いしております。17日に関西空港を発ちまして、28日に宮崎に帰って参ります。健康第一に務めてこようと思っております。
留守中に100周年記念例会が宮崎観光ホテルで開催されます。できればアナハイムから祝電を打ちたいと考えています。これから始まります約1年9ヶ月を一生懸命務めて参りますのでお力添え下さい。元気で行って参ります。
(担当 小川 雅也)