第2206回例会/平成16年12月24日(金)
会長挨拶(小田原 義征会長)
師走も残り少なくなりました。NHKの大河ドラマ「新選組」も終わりました。多摩の百姓出身ながら武士よりも武士らしく生きようとして、幕末、京の治安維持のため活躍した新選組、近藤勇・芹沢鴨等13名で八木邸を宿所とする(見学料800円→1,000円に値上げ、そして隣の寺コインパーキング、今は鶴屋の和菓子店を経営されてます)八木邸の一番奥の部屋が芹沢斬殺の部屋、ガイドの説明によると、近藤と土方は角屋で隊士総出の大宴会を開いた。そして、芹沢や平山等が酔い潰れるまで勧めたという。奥の6畳に男女4人、入口3畳に男3人、そこに沖田総司等4人が一気に剣をふる。深酒で寝込んでいた芹沢は跳ね起き抵抗した。同室の平山は寝たまま首をはねられる。
テレビと違って天井が低く刀が思うように使えない。鴨居にその時の刀傷があります。
舟宿の寺田屋は坂本龍馬が薩長の連絡の宿としていた。(今見学料金400円、一泊7,000円で営業している)。 坂本龍馬の愛室が2階の中にあり、入口出口の階段がある。出口1階に風呂があり、娘おりょうさんが入浴していると刺客があらわれ、そのことを竜馬に知らせ難をのがれる。その時の木風呂もそのまま残っています。
今年は台風も28号まで発生し、宮崎も3回上陸し、北川町の浸水とそれぞれの被害が出ました。又、新潟地震と1年中大なり小なり自然災害がありました。親が子を殺し、又、子が親を殺し、誘拐・殺人事件と人災も多くありました。
▲選挙 7月参議院選挙、大臣経験者が落選し新人37才の松下新平君が当選。11月都城市長選、ベテラン前市長に替って35才の最年少、永峯市長が誕生した。 新しい風が吹いたのでしょうか。
▲オーナー企業倒産 ダイエー−中内、西武(コクド)−堤、ミサワホーム−三澤 国際興業−小佐野、カネボウ−伊藤 まだまだ多くあると思いますが不思議です、今は第三期目の産業革命とも言われております。
▲嬉しかったこと^天皇家の紀宮様の婚約が内定したこと。_アテネオリンピックでメダルを過去最高に取ることが出来たこと。`マリナーズのイチロー外野手が大リーグ年間最多記録を84年ぶり塗り替える。262安打。
本日はゲスト卓話であります。民謡は日本の古里であり日本人の心であると思います。原田さんは民謡では日本一であります。楽しみにしています。 最後に皆様良いお年をお迎えください。
幹事報告(森重 勝雄幹事)
今年の例会は最後となりました。ようやく半年過ぎました。残りの半年、よろしくお願い致します。ヨ例会変更のお知らせ(裏表紙に記載の通り)
出席委員会(岡崎 優委員長)
本日の出席状況報告(前記の通り)
ハッピーボックス(大山 新一SAA)
ヨ“クリスマスイヴ” キリスト降誕の前夜祭 ポルトガル人で日本に布教に来ていたルイス・フロイスの手紙には、1565年(439年前)の今日、堺で数十人の武士を招き、クリスマス・イヴを祝ったという記録が残っております。 ちなみにクリスマス・イヴの日に例会が開催されますのは、次回は2010年になります。今後100年の間に12回やって来ます。とても素敵な日と例会が重なったことで皆さんからイヴの日24にちなんで240円ずつ頂戴出来ればと思いましたが、少しの気持ちを上乗せ頂き、500円のハッピーを頂戴出来ればありがたいです。
ヨ日高久夫会員 クリスマスイヴの日、もっともお忙しい方がきっとお菓子屋さんだと思うんです。そこで、お菓子屋さんときたら“お菓子の日高”さんです。今日と明日は沢山の売上げが上がると思いますので、そのおスソ分けという意味でハッピーを頂戴したいと思います。
ヨ押川幸男会員 日本キリスト教団の牧師でいらっしゃる押川会員にとっても、クリスマスというのは特別な日かと思います。
ヨS7.19.31.43生 申年 秋山 久会員 (S7.1.10) 市来 斉会員 (S7.12.24) 岩切宏海会員 (S19.12.12) 大薗英治会員 (S19.11.19)@LF 小田原義征会員(S19.4.5) 川野良博会員 (S31.9.5)@LF 小林貞雄会員 (S7.5.28) 日高照雄会員 (S7.1.30) 黒木育子会員 (S19.5.11) 井手脇万詔会員(S19.10.8) 出席率の低迷する中、申年の方々が今年最後の例会に高出席率に臨んで下さったことに関してハッピーを頂戴したいと思います。
ヨ余談ですが 遠距離恋愛の日 遠距離恋愛中の恋人同士が、クリスマス前に会ってお互いの愛を確かめあう日。「1221」の両側の1が1人を、中の2が近附いた2人を表す。
プログラム委員会(矢野 温三会員)
今月の行事予定表の訂正とお詫びを申し上げます。プログラム委員会の手違いで、本日のゲストである清武文化会館の原田 解(さとる)館長の名前を、原田 聡となっておりました。大変申し訳ございませんでした。原田さんは宮崎市出身で1954年に宮崎放送に入社され、ラジオ・テレビの制作部長や事業局長を経て82年にフリーとなられました。テレビやラジオに多数出演活躍されているので皆さんはよくご存知だと思います。専門分野は民俗芸能の調査研究とドキュメンタリー番組の制作です。平成10年には県文化賞を受賞されております。著書には「五つの流れ歌」、「ひえつき節物語」、「五線譜のない旅」など多数ございます。また宮崎民謡百選などの制作もされております。現在は宮崎県民俗学会副会長、清武文化会館館長であります。実は私は原田さんと大宮高校の同級生でありまして27、28歳の頃一緒に住んでおりました。その頃から家族での付き合いをしています。最近は公演の依頼を断っていらっしゃるのですが、特に無理をお願いしてきて頂きました。
卓話(清武町文化会館 館長 原田 解氏)
今から81年前の大正12年12月15日、ちょうど9日前の日付けになりますが、宮崎県民のかねてからの念願でした「日豊本線」が全線開通します。 当時としては、先の加久藤トンネルの全面開通どころではない、たいへんなビックイベントで、マスコミもこぞって大きく取り上げました。関東大震災の年だけにこうした明るい話題が注目されたのでしょう。 小倉から西鹿児島までが一本のレールで結ばれる。これはまさに画期的な出来事でして、事実この開通によって、これまでのもっぱら船に頼っていた海上輸送が、陸上輸送に取って変わられることになり、物や人の移動も大いにスピードアップしますし、流通も便利になってこれまでの中央との情報時差や経済格差がいっきに解消され活性化されて行きます。後退県からの脱却にとってもまたとない追い風でした。 そればかりでなく新しい文化や流行なども、そう時を置かずに運ばれて来るようになり、東京や大阪の学校に進学したり、会社に就職する若い人も増えて来まして交流が盛んになって来ます。私の専門“シャンシャン馬道中唄”の新婚旅行も、鵜戸から別府へと変わって行きます。それほど、暮らしに影響を与える出来事だった訳ですね。 そしてこの年から、置県50周年を記念した第1回の博覧会が大淀川畔、以前「まつり宮崎」の行なわれていたあの場所で開かれる、昭和8年までの10年間、いわゆる昭和初期になりますが、いろいろな分野で事はじめにチャレンジするパイオニアたちが相次ぎます。その意欲的な目覚ましい活動ぶりは、今に時を移しても目を見張るものがあります。 例えば声楽家第1号の権藤円立さん。彼は延岡中学から現在の芸大へ進んだテノール歌手で、大正14年のHNK、当時は東京放送局の開局の際には、記念放送を行ってます。またレコード各社から50枚近いレコードを出しています。 いっぽう女性のクラシック歌手第1号は、椎葉出身の中瀬スエさん、宮崎師範を卒業して上京し、武蔵野音楽学校の1期生のソプラノ歌手として活躍、昭和4年にはオペラ“蝶々夫人”の舞台に立っています。 同じ頃、全国に先がけて自主映画を制作し、周囲をアッと言わせたのが、国富出身の日高清一さんです。宮崎中学から早稲田の文学部に進んだ彼は、地元紙の編集長を務めるかたわら、自立劇団を立ち上げたり「宮崎音頭」などの新民謡を作詞したりと活躍を続けました。 昭和元年に作られたこの手作り映画は、現代劇の「新始受難」と、時代劇の「荒城の月」のなんと2本、しかも本格的なオールロケによる作品です。 幸いにも私はそれらのフィルムを手に入れることができましたが、「新始受難」には建設中の前の橘橋や橘通りが出てきていますし「荒城の月」は、国富町万福寺での合戦風景が見事です。 その他にも西条八十の童謡を数多く手がけた、美々津町出身の作曲家第1号の黒木 寛さんや、民間パイロットのこれまた草分けとして知られる、延岡市の後藤勇吉さん、それに日本陸上界の希望の星として期待されていた、宮崎市の村社講平さん。それに昭和8年に県民として初めてレコードを吹き込んだ、椎葉村の「ひえつき節」の名人、椎葉幸之助など、実に多士済々です。詳しく紹介すれば時間が幾つあっても足りないぐらいです。 その中でとりわけ私が興味を持っているのが、目野丁勘切という人物です。包丁の丁と堪忍袋の勘、それに切るという字を組み合わせた“チョカンキリ”この珍しい名前をこれまで耳にされたことがおありでしょうか。恐らく初めての方の方が多いのでは・・・ 実はそれもあって、今日の“むつかしくない話”の主人公に選んでみたという次第です。いかにも日向人らしい雰囲気を漂わせたこの目野丁勘切、さていったいどんな人物なのでしょうか。 チョカンキリはご存知のように、日向弁でトカゲのことです。もちろんこれはペンネームでして、彼の本名は目野清吉、M21年生まれの宮崎市の写真館のご主人です。この人もともとは、俳句の道を志すいわゆる俳人でしたが、その世界だけに物足りず、もっと庶民の暮らしに密着した、楽しく親しめる作品をと思案をこらしまして、お隣り鹿児島の“薩摩狂句”や熊本の“肥後狂句”のように、方言を生かした川柳“日向狂句”の創作と普及とに取り組みました。 そして地元紙に作品を次々と投稿して注目を集めます。大衆的で親しみやすく日向弁のユーモラスなところとピリリと辛いところが町の人気を呼んで、次第に愛好者が増えて行きます。彼が40才になった昭和3年、今から76年も前のことです。 この昭和の初期はと言いますと、ちょうど今と同じように、アメリカの不況を受けて不景気風が吹きまくり、農村は疲弊し、町にはルンペンと呼ばれた失業者があふれるというような状況でした。 その一方では、軍事色が強まりつつあり、先行き不透明感が漂う憂うつな世相でもありました。そんな庶民の暮らしの不満や憂さを笑いで吹き飛ばし、風刺の針でチクリと刺してうっぷんを晴らそうというこの試みは大いに受けまして、会社員から商売人、芸者さんといろいろな層の仲間が三百人も集う「へちま会」へと発展。夜な夜な居酒屋に集っては気炎を上げました。ただの遊びではなく、身近な問題を取り上げ批判をする。その廻りの社会性も人気を集めたようです。では、そうした作品の中からユニークなものの幾つかを紹介しましょう。年の瀬ぴったりというのもあります。
ヨあんわろ(奴)も こんどん(今度の)嬶にや せしこちょる(参ってる)
ヨ銭ゼンが欲し なんぼさるいてん(歩き回っても) 落てとらん
ヨ掛け取りは 焼酎出しても 呑じゃくれん 何となく身にしみる年の瀬です。そしてこんな句につながります。
ヨ一度どま 持った心シン配が してみてえ
ヨ貯めてかり ホット気付けば もうまやん(爺さん) そうした憂き世の人間様を見て
ヨ人間た け@RS忙セワ@RMしもんかよ 塀の猫 なかなか味のある一句です。
日向狂句の世界は庶民の世界です。それだけにいろいろな主人公が登場します。まず若い人ですが
ヨ天の河 見ちょる二人が 握っちょる ほほえましいデート風景です。
ヨここへんにゃ ハ行り遅れが モダンげな モダンという言葉が当時の流行語でもありました。
次に思わずニヤリとさせられるのがお婆さんをテーマにしたものです。
ヨはっちき(死に)やったか あん婆ババどんも 若けえ時にやのう さぞかし美人、それとも男泣かせだったのでしょうか。
ヨこん薬 あん薬 とうとうけ死にやった こちらは痛烈です。現在の健康ブームにも通じるものがあります。まさにビックリの一針です。もう一句
ヨほうしたい(驚いた) 婆さんの屁えか 今んとは “ぶっ”という字は仏なりけりという言葉もあるようですが。
このように日向狂句が持つユーモアや風刺は、今に通じるものがあります。決して流行り遅れではありません。それらの作品の中で、私が傑作だと思っている一句があります。
ヨ木枯しに 馬を吹かせて まだ呑(ぬ)じょろ 自動車がまだまだ日常的でなく馬車などが使われていた、暮らしの背景がこの句にはあります。木枯しの吹く今どきの夕べ、馬を引いての仕事帰りに、道端の屋台の前に立ち止まった主人公は、近くの木に馬をつなぎ、ダレヤメの焼酎を一ぱい、また一ぱい。つい時を忘れて馬だけが風に吹かれている風景を伴った味のある作品です。
いつも着流しで居酒屋に通っては仲間と笑いを生み出していた目野丁勘切は、やがての昭和10年、盲腸から腹膜炎をわずらい亡くなります。日向狂句の生みの親らしい、人生のエンドマークでした。享年48才でした。
その最後の作品、遺作が大淀川畔の小戸神社境内に石碑として残されています。家の紋の代りにドクロ印を彫り込んだ下に この世では しこたま貯めた 男なり と印されています。いったい何をしこたま貯めたのでしょうか。 そして彼の死に合わせるように時代は笑いを忘れた、戦争という長く暗いトンネルに入って行きます。こうして束の間の自由を、笑いを共にしながら楽しんだ、まさに“日向狂句”はスローライフの先取りと言ってよいでしょう。 どうやら時間のようです。今日は“余りむずかしくない話”で楽しい話をという注文に従ってのメニューでしたが、いかがでしたでしょうか。笑う門には福来たるという諺もあります。やがてトリ年が皆様にとって良い年であり、明るい年であることを願って、話を終わりたいと思います。
(完)
(担当:長崎秀峰)