第2191回例会/平成16年9月03日
会長挨拶(小田原義征会長)
先日の台風16号、皆さん被害はありませんでしたか。
昭和25年以降、観測以来最大瞬間風速55.8mを日南市の油津で記録し、初めてのことだそうです。私の記憶では、まだまだ大きな台風がきたような気がしていますが、被害が少ないのは、公共のインフラ整備ができたり、建替えで新しくなったからでしょうか。しかし、私の会社では電話が鳴りっぱなしです。水が出ない、テレビが映らない、ガラスが割れた、雨が漏る、瓦・看板が飛んだと色々な苦情がきております。
本日は、橋本善吉さんの追悼例会です。後ほど竹内先生より追悼の話があります。橋本さんは、ロータリークラブというより、西クラブを最も愛された方だったと思います。世界社会奉仕委員長をお願い致し、ご指導賜りたいと考えていた矢先でしたので大変残念です。
このひと月の間に、私の中学の恩師が5年前に脳梗塞で倒れ入退院を繰り返しておられましたが、7月26日亡くなりました。74才でした。若いと思います。又、工業高校の同窓生が埼玉県の蓮田市で、日産・ホンダの金型工場を経営しておりました。日産のゴーン社長になって、原価20%カット、時間外手当ゼロ、賞与もゼロ、もちろん社長の給料も下げられ、金型設計を人件費の安い中国・韓国へ外注しようと、土・日曜日まで打ち合せをしておりましたが、激務でガンが発見されて7ヶ月後、8月2日亡くなりました。8月23日には親友が亡くなりました。全日空の国際線の機長をしておりましたが、ガンが発見されて2年2ヶ月、この友人二人共夫婦して、第二の人生を楽しもうと話をしておりました。1ヶ月の間に4名の大事な人とお別れをしなければならず、寂しいというより残念です。しかし、これが人生かとも思いました。一日一生で頑張って参ります。(合掌)
幹事報告(森重 勝雄幹事)
例会変更のお知らせ(裏表紙に記載の通り)
会員であるFM宮崎様より開局20周年企画という事で「地震防災ハンドブック」が発行されましたので紹介いたします。@吉賀会員の油絵展が9月8日から9月14日まで山形屋の6階美術サロンで開催されます。
先週の土曜日、宮崎駅前で新世代委員会及びローターアクトが新世代フォーラムのチラシ配りを行いました。フォーラムに参加して頂きますようよろしくお願いします。
出席委員会(岡崎 優委員長)
本日の出席状況報告(前記の通り)
親睦委員会報告
今回初めてになりますが9月の結婚祝いとして大塚一止会員、志多克彦会員、田崎博俊会員に記念のお花を贈らせて頂きました。
今月誕生月の皆様
吉賀会員、卒寿をおめでとうございます。川野会員、前畑会員、吉田(信)お誕生日おめでとうございます。
(川野良博会員)、前畑智之会員、吉賀幸夫会員、吉田信一郎会員
9月24日に観月家族会をホテル浜荘で行います。今回は盛り沢山の料理を中心としていますので是非御家族そろって御参加くださいますようお願い致します。
金丸憲史エレクト地区幹事
大変恐縮ではありますがガバナーエレクト事務所への支援金として宮崎西クラブでは1万2千円、中部分区へは6千円のご負担をして頂く事に御礼を申し上げます。
9月1日に開設致しましたガバナーエレクト事務局に大塚美恭さんを迎え入れました。大塚さんは吉松パストガバナーの下で2年間事務所の運営を手伝っておりましたので、私共にとって願ってもない方を迎え入れることが出来ました。
大塚美恭さんさん挨拶
はじめまして、吉松ガバナー年度のときに2年間ガバナー事務所で働かせて頂きました。その時の経験を生かされるようがんばりますのでよろしくお願い致します。
(大山 新一SAA)
ヨハッピーボックスの紹介(内容省略)
故橋本善吉会員を偲んで(竹内会員)
本日、故橋本善吉君の追悼例会が行われるにあたり、私から一言彼との思い出を語るようとの要請を受けました。
皆さん御承知の彼は我がクラブ発足翌年、昭和36年の入会で以来43年の無欠席を続けて参りました。
私が40年西クラブに入会した当時、彼は新進気鋭のロータリアンで当時S.A.Aを務めていました。若い彼のS.A.A発言はユーモラスでクラブを盛り立てていたのが印象的で私を魅了しました。
その後一緒にRCの役員をしたりしてだんだん親しくなり、晩年は国内外の旅行にほとんど彼と同行しました。一昨春は家族で有馬温泉に遊び、引続き私と同期のガバナーを高野山に訪問、3〜4日過した事がありました。この時の楽しい印象が強く、今度の大阪の国際大会での有馬温泉の宿泊を楽しみにしていましたが、残念にも実行出来ませんでした。又福岡ドームに野球観戦に同行し、二人で風船を飛ばしたこともありました。
彼は幼少より秀才で当時旧制の宮崎商業を4修で山口の高等商業高校(極めて難関な)に入学、その後も向学心強く慶応大学を卒業しました。
趣味は読書と食べ歩きでした。私は医師としての専門職業人で読書本もほとんど医学書であり、為に極めて人間的な幅が狭く、実業界を代表する常識豊かな彼との交流は大いに魅力を感じ、接触は深まって参りました。
私がガバナー就任時ロータリーの友に私のプロフィールを書いて呉れました。
その内容はコンパクトに名文で私を評価して呉れました。そんな彼が5月11日少し息苦しいと私の病院を訪ね、検査の結果運悪く悪性の肋膜炎罹患していることが判明、現代医学では手が届かない病状でありました。そこで私は現在の国内外の文献を集め最も新しい治療を試みましたが全然効果を認めませんでした。結局治療としては栄養保持と徐痛療法のみで残念にも7月11日昇天しました。
男性の平均寿命であったとはとは云え、借しみても余りある人材、友人を失ってしまいました。
タクラマカン砂漠縦断の旅 10日間(8月4日〜8月13日) 前園善彦
☆シルクロードとは東西交易路を『シルクロード』と名付けたのは、ドイツの地理学者リヒトホーフェンだが、彼は中国とパキスタンやアフガニスタンを結ぶ絹貿易のルートを想定していた。その後、シルクロードの範囲は拡大され、現在では東アジアとヨーロッパを結ぶ交易陸路を総称して、シルクロードと呼んでいる。
さまざまなルートがあるなかで最も有名なのが古代オアシスルート。中国の西北地方がまさにこのルートにあたる。
ルートは3本あるが、いずれの道も西安が起点で、ここから蘭州、武威、張掖、酒泉、敦煌までのルートは共通。ここまでを河西回廊という。敦煌から3つのルートに分かれる。
▼ 天山北路 敦煌から北進し、伊吾(ハミ)を通って天山山脈の北側を西へ向かうルート。高昌(トルファン)から北進しても合流できた。
▼ 天山南路北道 天山山脈と崑崙山脈の間にあるタリム盆地(タクラマカン砂漠)を囲むようにしてオアシス路ができている。天山南路は北道と南道に分かれている。北道は、敦煌を玉門関から出て、桜欄、亀茲(クチャ)を通って、カシュガルに至る。ここからさらに西進するとサマルカンドを経て@LF地中海にたどり着き、天山北路に合流する。
▼ 天山南路南道(西域南路) 南道は、敦煌の陽関を出て、米蘭(ミーラン)、且末(チャルチャン)和田(ホータン)、を経て莎車(ヤルカンド)に至る。ここからカラコルム山脈を越えて南進すればガンダーラ(北インド・ネパール)に着く。ここは、多くの僧侶が仏典を求める旅で使ったルートで、仏教ルートともいえる。また、タシュクルガンからパミールを越えれば、西トルキスタン (パキスタンやアフガニスタンがあるエリア)に抜けられた。そして、中国のシルクロードでの歴史的興亡は、おもに河西回廊とタリム盆地のオアシス都市が舞台となった。クチャ(庫車)
☆ キジル千仏洞 クチャの西75kmの拜城県にある、亀茲国の貴重な仏教文化遺跡で、渓谷によって東区と西区に分けられる。 後漢から宋代にかけて開削された石窟は、渭干河の北岸およそ40mの断崖にあり、1973年に発見された新1号窟を含めると、その数は237窟に及ぶ。そのうちで70余窟は比較的保存状況がよく貴重な壁画が残っているが、塑像は新1号窟を除くほとんどが破壊されたか持ち去られてしまった。 一般に開放されている石窟では、伎楽天国のある窟、中国で最も早く描かれた飛天画のある窟、臥仏像の残る窟などがある。(第220窟と第222窟の題字が漢字である以外は、すべて古代亀茲語で記されているのにも注目)
☆ スバシ故城 クチャの北、チェルターグ山の南麓に広がる仏教遺跡で、玄奘が記した『大唐西域記』に登場するアーシュチャリア寺だと考えられており、それが正しければ、魏晋時期に創建され、唐代には亀茲国最大の寺院であった所だ。 寺院は、クチャ河を挟んで東寺区と西寺区に分かれている。東寺区は山麓に沿った東西146m、南北535mの範囲にあり、その西部を中心に寺院、僧坊、北塔、石窟などが点在している。西寺区は東西170m、南北685mの範囲に南塔や石窟を中心に、かなり多くの建築物が残り、陶器、鉄器、経典などが出土している。
☆ ホータンは、新疆の西南部、タクラマカン砂漠と崑崙山脈に挟まれた所にあるオアシス都市。ホータン地区(面積24万5333平方キロメートル、人口約166万人)の中心地として、面積189平方キロメートル人口約17万人。 ホータンは尉遅一族によって建国された、うてんこく(紀元前242〜紀元後1006年)の故地で、仏教を国教に定め、法顕や玄奘などの中国僧もここを訪れるなど、仏教国として繁栄を遂げたが、カラハン朝がこの地を支配すると、イスラム・トルコ化か急速に進み、現在では新疆で最もウイグル族の割合が高い地区となっている。ちなみにその割合は、ホータン地区で総人口の約9割、ホータン市に限っても約8割に達する。 また、ホータンの特産品にはじゅうたんと玉がある。特に玉は古くから有名で、絹の道よりも早く、現在より4000〜5000年前には玉の道をつくり出し、東はチャルチャン、ロプノールを通って西安や安陽(殷の都)に持ち込まれ、西はカシュガル、カブール(アフガニスタン)、イスファハーン(イラン)、バグダッド(イラク)を通ってヨーロッパに運ばれ、世界各地で珍重された。
☆ カシュガル カシュガルは、東トルキスタン西部の中心都市として、シルクロード貿易とともにずっと栄えてきた。中央アジアと中国を結ぶ要衝として多くの民族、文化が行き交わったこの町は、いろいろな所にその痕跡を留めている。例えばカシュガルという名前の由来。玉の集まる所 (古イラン語、ペルシャ語、チュウルク語)であるとか、緑色の屋根を持つ建物(モンゴル語)であるなどさまざまな説がある。 現在のカシュガルは面積96P、約32万人の人が暮らす小さな町だが、カシュガル地区(面積14万1820平方キロメートル、人口337万人)の中心地であり、イスラム教徒ウイグル族が住民の多数を占めている。 年々漢族移住者が増えていることやウイグル族の多くが農村部に住んでいるということから、思いの外、漢族の住民も多いのだが、同じシルクロードのオアシス都市である嘉峪関や敦煌などで感じられる中国的要素は非常に薄れ、シルクロードの道のりも中央アジアヘと差しかかったことを肌で感じることだろう。
● エイティガール寺院 市の中心にあるイスラム教寺院で、新疆最大規模を誇る。イスラム暦846年(1422年。明の永楽20年)に創建された後、何度かの修復を経て、1872年(清の同治11年)の大規模な拡張工事により南北140m、東西120m、面積1万6000平方キロメートルの巨大な寺院となった。 正門の高さは12m、左右の尖塔(ミナレット)は18mで、壁面には細密な文様が彫り込まれている。寺院内部には庭園や礼拝堂があり、イスラム教の祭日であるグルバン節やローズ節には、2〜3万人もの信者がここを訪れる。
● アパク・ホージャ墓 16世紀末に新疆イスラム教白帽派の著名な指導者アパク・ホージャとその家族(5代72人)の陵墓で、別名は尊者の墓。また、乾隆帝のウイグル人妃子であった香妃(容妃)がここに葬られたと誤伝されたため、香妃墓とも呼ばれる。 創建は1670年(清の康煕9年)で、最初に葬られたのはアパク・ホージャの父ホージャ・ユースフ。その後たびたび修復、拡張されたが、1874年(清の同治13年)の大規模な修復によって、中央アジア式イスラム陵墓となり、モスクなどが新たに建築された。 1948年の地震で陵墓の中心となっていた墓室が破壊されたが、1974年に再度修復された。 一族の柩を安置する建物は、緑のタイルを張りつめた円形アーチ屋根をもち、四角に建つ尖塔のモザイクが美しい。
(担当:長崎秀峰)